「ルノワールの女性たち」15 パトロン②ルイ・カーン=ダンヴェール

 「少女」という概念が誕生したのはそれほど昔のことではない。ユゴーの『レ・ミゼラブル』に出てくる少女コゼットなどによって、人々の頭の中で少女なるものがしだいに形成されていき、『1866-90年版ラルース百科事典』に初めて「少女」の項目が登場する。それによると、「少年に比べ、少女は一般的に繊細でか弱く、肌は青白くしっとりしていて、おとなしく、弱々しく、愛らしく、お茶目である・・・・」とある。ルノワールが描く少女像はこの定義にピッタリと当てはまる。いや、逆に言えば、ルノワールこそ少女という概念に視覚的なイメージを与えた画家といってもいいかもしれない。

 彼は女性と子供を好んだが、なかでも子供でありながら女性でもある「少女」は特別だった。ブルジョア、労働者階級、旅芸人など、あらゆる階層の少女を描いている。

 ルノワールは、肖像画に注文主がいる場合は、少し古典的な手法を取り入れ、相手の気に入るように洋服や髪型もかなり細かく描き込んだ。他方、自主的に描く場合は、構図やタッチに思い切った実験が試みられる。だが、どんなかたちで描かれるにせよ、どの子もそれぞれ愛らしく、少女特有の魅力を放っている。

 1870年代後半から80年代にかけて、ルノワールは洗練された裕福な人々の知遇を得るようになり、その多くから肖像画制作の依頼を受けた。ルノワールとカーン=ダンヴェール家の出会いも、この時期に当たる。裕福なユダヤ人銀行家のルイ・カーン=ダンヴェール伯爵とその妻ルイーズは、美術雑誌「ガゼット・デ・ボザール」の編集長であり、銀行家、美術史家、美術蒐集家としても活動し、印象派の画家たちの支援者であったシャルル・エフリュシを通してルノワールと出合った。ルノワールには、カーン=ダンヴェール夫妻の5人の子供のうち3人の娘たちと、伯爵の弟で音楽家のアルベール・カーン・ダンヴェールの肖像画の注文が寄せられた。

【作品25】「イレーヌ・カーン=ダンヴェール」1880年 ビュールレ・コレクション チューリヒ

 印象派の絵画のうち、最も美しい肖像画の一枚とも称される作品。この作品は、1880年の夏にパリのバッサーノ通りのカーン=ダンヴェール家の庭で2回ポーズをとってから描かれた。しかし、《陽光の中の裸婦》のような斑点を用いたあからさまな光と影の追求は抑えられている。8歳のイレーヌは、薄い青のドレスをまとっており、肩には赤茶色の美しい髪が覆うようにかかっている。切りそろえられた前髪と後ろでリボンでまとめる髪型は、当時流行していた少女の髪型であった。庭の一隅を表現したと思われる後ろの深い緑の茂みが、イレーヌのあどけない顔を引き立てている。まつげなどの細部は入念に仕上げられており、清らかな美しさが見事に表現されている。

 第二次世界大戦の最中、ナチス・ドイツに没収されベルリンで保管されていたが、戦後の1946年に当時74歳のイレーヌに返還された。しかし3年後にナチス・ドイツを始め世界各国に兵器を売って巨万の財を成した武器商人で、スイスに帰化したドイツ人の印象派コレクターのビュールレが競売で入手しビュールレ・コレクションに収められるという皮肉な経緯を辿り現在に至っている。ちなみにイレーヌの娘ベアトリスも二人の孫も、アウシュビッツで死亡している。イレーヌ本人はイタリア人貴族と再婚していた時期にカトリック教徒に改宗し、ユダヤ人富豪の前夫カモンドや子供だけでなくユダヤ人社会とは完全に絶縁しており、かつ娘のベアトリスのような派手で豪華な生活を送って居なかった事も有り、ナチスに存在を気づかれる事もなくユダヤ人狩りから逃れる事が出来た。

【作品26】「エリザベスとアリス・カーン・ダンヴェール」1881年 サン・パウロ美術館

 ダンヴェール夫人は、長女イレーヌのほかに、妹ふたりの肖像も依頼した。5歳と6歳の姉妹の表情の微妙な違いが絶妙。白いレースから透けて見えるピンクとブルーの服地。それらとコーディネートされた同色のサッシュベルト、ソックス。その質感の表現力は見事である。この絵は、ルノワールが手がけた子供を描いた肖像画の代表作であるが、ダンヴェール夫人は気に入らず、使用人の部屋にかけていたという。

1880「イレーヌ・カーン・ダンヴェール」

1881「エリザベスとアリス・カーン・ダンヴェール」

1881「アルベール・カーン・ダンヴェール」ポール・ ゲッティ美術館 

 作曲家であるイレーヌの叔父アルベール

1879「フェルナンド・サーカス」

1879「ジプシーの少女」

1881「アルジェリアの少女」

1888「小麦の束を持つ少女」

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