「平戸・長崎三泊四日」9 10月6日長崎(4)勝海舟①

 日本二十六聖人記念館がある西坂の近くに本蓮寺がある。かつてこの寺の大乗院を勝麟太郎(海舟)が宿泊所としていた。なぜ麟太郎が長崎にいたのかと言えば、安政2年(1855年)に江戸幕府が海軍士官養成のため長崎西役所(現在の長崎市江戸町)に設立した教育機関「長崎海軍伝習所」で学ぶためだ。黒船来航後、海防体制強化のため西洋式軍艦の輸入などを決めた江戸幕府は、オランダ商館長ドンケル・クルチウスの勧めにより幕府海軍の士官を養成する機関の設立を決める。オランダ海軍からの教師派遣などが約束され、ペルス・ライケン以下の第一次教師団、後にヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ以下の第二次教師団が派遣された。さらに練習艦として蒸気船「スームビング号」(「観光丸」)の寄贈を受けた。もちろん、オランダが商船を献上したのにはしたたかな計算があった。クルチウスはバタビヤ総督府に送った手紙にこうある。

「1855年【安政2】に商船1隻を、オランダ国王より将軍へ献上してはどうか。日本人は、いったん蒸気船を入手し、その操縦法を学べば、かならず多数の軍艦、商船の注文をするに違いない。そうなれば、献上船の出費をはるかに上回る利益が得られるであろう」

 幕府は献上された「スームビング号」の艦名を「観光丸」と変更し、海軍練習艦として使用することにする。長崎海軍伝習所の「諸取締」(総責任者)は海防掛目付の永井尚志(なおゆき)、麟太郎は生徒監(ほかにも2人)に任じられた。麟太郎は長崎に出向く際、小普請組(無役。40俵。古着屋で買った帯1本を、3年間も妻に締めさせていたというほど赤貧だった無役時代の麟太郎は年の暮れに正月用の持ちを買う金もなかった。)から小十人組(100俵)に昇進。当時としては破格の抜擢である。

麟太郎の異才を見抜いたのは、名門旗本家出身ながら早くから開国、大政奉還を唱えた開明派の幕臣大久保一翁(いちおう)。そして麟太郎の才能が開花するのは1853年のペリー来航。浦賀沖に軍艦4隻とともに現れたペリーは、江戸の平和を打ち破る。幕府は、老中阿部正弘を通じて今後の対外政策について意見書を募ったが、幕府の危機感は、この意見書を出す者の出自を問わなかったことに象徴的に表れている。大名、武士、学者はもとより、町民、任侠からの応募もOKだったので、700通以上の応募があったと言われる。

 麟太郎は以前から蘭学や兵法について学び、佐久間象山のもとで西洋兵学の教えを受けていた上、蘭書を参考に鉄砲や野戦砲の製作もしていた。さらに、海防についても一家言持っていた麟太郎は、幕府に自らの存在をアピールし、あわよくば仕官できるまたとないチャンスと考え、「五ヶ条の意見書」を提出した。世に言う「海防意見書」である。その骨子は、身分を問わず有能な人材の登用、江戸湾台場の防備、軍艦の建設や砲と銃の生産など、これからの日本を見据えたものだった。

 これが老中阿部正弘や海防掛として対外問題の処理に携わっていた大久保一翁の目に留まった。優れた見識に感服した大久保は、さっそく麟太郎に面会を求めたところ、お互いに開国論者であったため意気投合したという。その後、大久保の推挙により、安政2年(1855年)1月18日、異国応接掛附蘭書翻訳御用に任じられて念願の役入りを果たした。さらに大久保は、オランダから献上された蒸気船運転の研修を受けるため派遣する武官の中に、麟太郎を組み入れてくれた。

 伝習所ではオランダ語がよくできたため生徒監も兼ね、伝習生とオランダ人教官の連絡役も務めた。しかし、海軍知識はほとんど無かったため、本心では分野違いの長崎赴任を嫌がっていたが(8月20日の象山宛の手紙より)、10月20日に船で長崎に到着。伝習所は長崎奉行の別宅で、幕府目付が在勤するとき宿舎に使った「西役所」内に設けられた。

 日本二十六聖人記念館がある西坂の近くに本蓮寺がある。かつてこの寺の大乗院を勝麟太郎(海舟)が宿泊所としていた。なぜ麟太郎が長崎にいたのかと言えば、安政2年(1855年)に江戸幕府が海軍士官養成のため長崎西役所(現在の長崎市江戸町)に設立した教育機関「長崎海軍伝習所」で学ぶためだ。黒船来航後、海防体制強化のため西洋式軍艦の輸入などを決めた江戸幕府は、オランダ商館長ドンケル・クルチウスの勧めにより幕府海軍の士官を養成する機関の設立を決める。オランダ海軍からの教師派遣などが約束され、ペルス・ライケン以下の第一次教師団、後にヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ以下の第二次教師団が派遣された。さらに練習艦として蒸気船「スームビング号」(「観光丸」)の寄贈を受けた。もちろん、オランダが商船を献上したのにはしたたかな計算があった。クルチウスはバタビヤ総督府に送った手紙にこうある。

「1855年【安政2】に商船1隻を、オランダ国王より将軍へ献上してはどうか。日本人は、いったん蒸気船を入手し、その操縦法を学べば、かならず多数の軍艦、商船の注文をするに違いない。そうなれば、献上船の出費をはるかに上回る利益が得られるであろう」

 幕府は献上された「スームビング号」の艦名を「観光丸」と変更し、海軍練習艦として使用することにする。長崎海軍伝習所の「諸取締」(総責任者)は海防掛目付の永井尚志(なおゆき)、麟太郎は生徒監(ほかにも2人)に任じられた。麟太郎は長崎に出向く際、小普請組(無役。40俵。古着屋で買った帯1本を、3年間も妻に締めさせていたというほど赤貧だった無役時代の麟太郎は年の暮れに正月用の持ちを買う金もなかった。)から小十人組(100俵)に昇進。当時としては破格の抜擢である。

麟太郎の異才を見抜いたのは、名門旗本家出身ながら早くから開国、大政奉還を唱えた開明派の幕臣大久保一翁(いちおう)。そして麟太郎の才能が開花するのは1853年のペリー来航。浦賀沖に軍艦4隻とともに現れたペリーは、江戸の平和を打ち破る。幕府は、老中阿部正弘を通じて今後の対外政策について意見書を募ったが、幕府の危機感は、この意見書を出す者の出自を問わなかったことに象徴的に表れている。大名、武士、学者はもとより、町民、任侠からの応募もOKだったので、700通以上の応募があったと言われる。

 麟太郎は以前から蘭学や兵法について学び、佐久間象山のもとで西洋兵学の教えを受けていた上、蘭書を参考に鉄砲や野戦砲の製作もしていた。さらに、海防についても一家言持っていた麟太郎は、幕府に自らの存在をアピールし、あわよくば仕官できるまたとないチャンスと考え、「五ヶ条の意見書」を提出した。世に言う「海防意見書」である。その骨子は、身分を問わず有能な人材の登用、江戸湾台場の防備、軍艦の建設や砲と銃の生産など、これからの日本を見据えたものだった。

 これが老中阿部正弘や海防掛として対外問題の処理に携わっていた大久保一翁の目に留まった。優れた見識に感服した大久保は、さっそく麟太郎に面会を求めたところ、お互いに開国論者であったため意気投合したという。その後、大久保の推挙により、安政2年(1855年)1月18日、異国応接掛附蘭書翻訳御用に任じられて念願の役入りを果たした。さらに大久保は、オランダから献上された蒸気船運転の研修を受けるため派遣する武官の中に、麟太郎を組み入れてくれた。

 伝習所ではオランダ語がよくできたため生徒監も兼ね、伝習生とオランダ人教官の連絡役も務めた。しかし、海軍知識はほとんど無かったため、本心では分野違いの長崎赴任を嫌がっていたが(8月20日の象山宛の手紙より)、10月20日に船で長崎に到着。伝習所は長崎奉行の別宅で、幕府目付が在勤するとき宿舎に使った「西役所」内に設けられた。

「長崎海軍伝習所絵図」

勝海舟 1860年

「本蓮寺」長崎

「勝海舟寓居の地」碑

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