「エリザベス1世の統治術」10 スコットランド女王メアリー④

 1568年5月、ロッホ・リーヴン城を脱走したメアリーは6千人の兵を集めて軍を起こすが、マリ伯の軍に敗れ、イングランドのエリザベス1世の元に逃れる。メアリーはエリザベスに宛てて手紙を書く。

「わたくしは今、王国を追い立てられ、神をのぞいてはあなたにおすがりする他ない状態に陥っております。お願いです。親愛なる姉上さま。わたくしがこの度のすべての事柄についてあなたに言上できますよう、できるだけ早くあなたにお会いすることをお許しください。同時に神が、あなたには天の恵みを、わたくしには忍耐と慰めとをお授けくださいますように。」

 1568年5月16日、ダンドレナンの小さな港から漁船に乗り込んだメアリーは、4時間後にワーキングトンの港に到着。エリザベスは、メアリーのイングランド到着をどんな思いで受け止めたか?通行券も持たず、前もって伺いを立てることもなく自らの家臣に追われてイングランドに逃亡してきたスコットランド女王。エリザベスは、これまで多くのスコットランドからの亡命者にそうしてきたように、メアリーに対して恵みを施すようにして避難所を与え、イングランド王位継承権を要求したり、エリザベスの推薦した結婚相手を拒否したり、何かにつけてしゃくの種だったメアリーを、自分の前に膝を屈させることもできる。あるいは政治事情を理由にメアリーのイングランド滞在を拒否し、どこか国外に送り届けることもできる。いずれにせよ、エリザベスの気持ちは、メアリーを快く自分のもとに迎え、その請願に耳を傾けようとする方に動いていた。

 しかし、最側近の枢密顧問官ウィリアム・セシルが猛反対。彼は言う。メアリーをイングランドに引き留めたらどうなるか。スコットランドに対するメアリーの権利を認め、イングランドはマリ伯を摂政とするプロテスタント政府を敵にまわすことになる。それだけではない。メアリーはイングランドにおけるカトリック教徒の発展の危険な温床となりうる。他方、メアリーをフランスに逃せば、フランス側は好機とばかりにメアリーを表に立てて、新たにイングランド王位を要求して戦いを仕掛けてくるだろう、と。エリザベスはセシルの意見に従い、イングランドに引き留めることもフランスに逃すことも選ばないことを決意する。

 ダ―ンリ殺害をめぐる審理(メアリーは共犯者かどうか)が開かれる。メアリーは審理の開催に反対し続けた。自分の裁判官は神をおいて他にない、誰かが自分を裁こうと思うなら、それはおこがましい越権行為だと。メアリーは、5月のイングランド到着から10月のヨークにおける審理までエリザベスに宛てて20通余りの手紙を書く。

「私がここに参ったのは、自分の名誉を再び我がものにするためであり、わたくしについて偽りの非難をする者たちを罰する助力を得るためであって、同等の者として彼らに応答するためではございません。わたくしがあなたを自分の最近親として、そして完璧な友として王侯たちの間から選び出したのは、彼らをあなたの面前で告発するためでございます」

 エリザベスは、使者を通してメアリーに伝える。もし審理の結果、メアリーの無罪が証明されたら、自分は全力を挙げて彼女の王位復帰を助けるだろう。また万が一メアリーが有罪ということになっても、自分は彼女とマリ伯らが和解に達するよう最善を尽くすだろう、と。2か月の交渉の末、女王としての名誉を傷つけないことを条件にメアリーは審理に同意する。審理の結果はどうなったか。メアリーの有罪は証明されなかったが、また無罪も証明されなかった。エリザベスはメアリーとの約束を反故にした。身の証を立てるのを援助するという約束を破ったばかりでなく、確固とした理由もないままに彼女を監禁し続けるという道を選んだ。エリザベスのこれだけの不実を前にして、もはやメアリーに残されたのは、同じ不実をもって彼女に対抗することだけだった。こうして、メアリーはエリザベスの不倶戴天の敵となり、エリザベスに対して企てられる暗殺や陰謀の中心人物となっていく。

ニコラス・ヒリアード「スコットランド女王メアリー」ヴィクトリア&アルバート博物館

映画「二人の女王 メアリーとエリザベス」(原題 Mary Queen of Scots)

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