「エリザベス1世の統治術」2 エリザベス女王誕生②人に命令する技術
メアリー女王(エリザベスの異母姉)の生前、エリザベスに憎悪を募らせるメアリーの気持ちを和らげ、姉妹の中を取り持ったのは実はスペインのフェリペ2世だった(皇太子時代の1554年にメアリー1世と結婚。1556年にスペイン国王に即位)。それだけではない。フェリペ2世は、エリザベスの王位継承の最大の保護者であり、メアリー女王にエリザベスを次期君主に指名するよう強く働きかけた。フェリペ2世はカトリック、そしてやがて無敵艦隊でイギリスと戦火を交えることになるのだが、なぜこの時点でフェリペはプロテスタントのエリザベスの王位継承に加担したのか?理由は宿敵フランス対策。1558年4月、フランス国王アンリ2世の王太子フランソワ(1559年フランソワ2世として即位。翌1560年死去)と結婚したスコットランド女王メアリー・スチュアートは、エリザベスの父ヘンリー8世の姉マーガレットの孫娘。エリザベス(ヘンリー8世の庶子)がメアリー1世の後継者と認められなければ、メアリー・スチュアートがイギリス女王となり、イギリスの王位がフランスの手中に落ちることになってしまう(実際、エリザベス1世がイングランド女王に即位すると、フランス国王アンリ2世は「庶子であるエリザベスの王位継承権には疑義があり、メアリーこそ正当なイングランド王位継承権者である」と抗議)。それだけは、スペインとしては容認するわけにはいかなかったのだ。
フェリペ2世は、女王就任について自分に多大な恩恵をうけたはずのエリザベスは、自分に好意を抱いている、容易に懐柔できると踏んでいた。感情的なメアリー1世と違い、冷静沈着な判断力と洞察力に富むエリザベスは、外交について経験豊富なフェリア伯爵(メアリーが病に倒れた後、エリザベスと協議すべくフェリペ2世が派遣)を信頼し、彼の助言に従うだろうと楽観していた。しかし、11月14日付けのフェリア伯爵の手紙を読み、自分の考えの甘さを知り、暗澹たる気持ちになる。
「彼女は虚栄心の強い才気ある女性です。父ヘンリー8世がどう統治したのか、そのすべてを完璧に学んだに違いありません。宗教に関しては、あまりよい教育を受けなかったのではないかと危惧します。異端者のプロテスタントを重用して統治するおつもりのようです。加えて、取り巻きの女性たちはすべて異端者だと聞いています。エリザベス様はメアリー女王の時代に蒙った不幸について大変憤慨し、支持者を大事にしておられます。王女を今の身分に押し上げたのは、その人たちであるとおっしゃられました。陛下のおかげであると考えておられず、陛下に感謝することはないでしょう。・・・女王は誰にも支配されないご決意です。」(1558年11月14日付けフェリペ2世宛のフェリア伯爵の手紙)
25歳のエリザベスは、即位時点ですでに王者の威光を漂わせていた。それは、生来のものでもあったが、刻苦勉励、艱難辛苦の賜物でもあった。エリザベスの身のこなし、当意即妙の受け応え、その気になりさえすればものすごく魅力的にもなれたし、気に障れば怒りを露わにした。フェリア伯爵は感嘆した。「すべてのアートの中でもっとも難しい、人に命令する技術」を、エリザベスほど本能的に身につけている者はいないと感じた。
「即位するや否や、エリザベス女王の威光はいや増し、メアリー女王とは比較できないほど恐れられています。命令し、自分の考えを断固実行に移すところは、専制君主だった父ヘンリー8世にそっくりです」(1558年12月26日付けフェリペ2世宛のフェリア伯爵の手紙)
当時の大方の人々は、女性は「信じるに値せず、胃袋ばかり大きく、忍耐力がなく、おしゃべりで、嘘つきで、何事においても極端に走り、中庸さはなく、愛しすぎ、憎みすぎ、人の言うなりになるどころか男を服従させようとし、自然が女に与えた資質を軽蔑する」と考えていた。また、女性は本来的に「弱く、脆く、すぐにいらいらし、虚弱で、愚かである。女は不実、心変わりしやすく、残酷で、他人を導いたりする管理する能力に欠ける」と決めつけた。しかし、エリザベス女王はそんな女に対する偏見など歯牙にもかけなかった。彼女は「君主の座を用意したのは神である」のだから、女性だからといって、君主としての威光が減じることはないと信じていた。神の意志、神の力で王冠にたどり着いたと固く信じるエリザベスは、その容姿にも言葉遣いにも、自身に裏付けられた落着きと優美さがにじみ出ていた。
エリザベス1世の父ヘンリー8世と母アン・ブーリン
「エリザベス13歳の肖像画」1546年 ウィンザー城
「フェリペ2世とメアリー1世」
「スコットランド女王メアリー・スチュアート」エルミタージュ美術館
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