ジョゼフィーヌという生き方14 離婚の恐怖
ナポレオンの母レティツィアは、息子の嫁が息子より年上で、しかも二人の連れ子までいることから、結婚の知らせを息子の手紙で知っても返事も書かずに放っておいたほど、ジョゼフィーヌを毛嫌いしていた。兄妹は「年寄り」「浮気女」「浪費家」と、非難の言葉を投げ続けた。ファーストレディとなったジョゼフィーヌはいまやナポレオンのためにのみ生きようとしていたが、離婚の恐怖が消えることはなかった。子どもができないからだ。ジョゼフィーヌは一計を案じる。娘のオルタンスをナポレオンの弟ルイと結婚させる、そして、二人の間に男の子が生まれたらナポレオンが養子として引き取る。1802年1月4日、オルタンスとルイは結婚。この年の10月10日には、めでたく長男ナポレオン・シャルルが誕生した。
1804年12月、ナポレオンはフランス皇帝として戴冠式を挙げる。この時も、ジョゼフィーヌは自分の地位を確実にするために手をうつ。戴冠式では、ジョゼフィーヌも皇后の冠を受ける。ローマ教皇の手で皇后として戴冠された女が、そのあとで離婚されることはないだろう。しかし、ジョゼフィーヌはナポレオンと宗教上の結婚式を挙げていない。戴冠式の前に宗教上の式を挙げて、自分の立場を安全なものにしておきたかった。戴冠式の前日、ジョゼフィーヌはローマ教皇ピウス7世に会見を求め、自分たち夫婦が宗教上の結婚をしていないことを告白。教皇は気絶するほど驚く。教会での式をすましていないカップルは神の前に罪を犯しながら暮らしているということ。そんな夫婦に、聖油を授け、祝福を与えるところだったのだから。深夜、チュイルリー宮殿の礼拝堂でナポレオンとジョゼフィーヌはナポレオンの叔父フェシュ枢機卿によって神の祝福が与えられた。
しかし、こうした努力も結局無駄に終わる。オルタンスの長男ナポレオン・シャルルが1807年5月に病死した。しかしオルタンスは、ナポレオンの弟ルイとの間に、1804年次男ナポレオン・ルイ、1808年三男シャルル・ルイ(後のナポレオン3世)を産んでいる。ジョゼフィーヌにとって衝撃だったのは、ナポレオンと他の女性の間で子供が生まれたことだ。ジョゼフィーヌには前夫との間に二人の子どもがいる。だから、ナポレオンとの間で子どもができない原因はナポレオンにあると考えられていた。しかし、子どもができたことでナポレオンの生殖能力に問題がないことが証明されてしまったのだ。1806年の暮れにナポレオンの子どもを産んだエレオノールは身持ちの悪い女だったため、ナポレオンは間違いなく自分の子だと確信することはできなかった。しかし、マリア・ヴァレフスカ伯爵夫人から1809年9月に妊娠を告げられた(出産は翌年5月)ナポレオンは、二人の間に子供ができなかったのはジョゼフィーヌに原因があったのだということを確信する。
ナポレオン帝国の基礎を固めるには、やはり子どもが必要だった。ナポレオンは始終戦場にあり、しかも戦場では陣頭指揮をとるので、流れ弾にあたって不慮の死をとげるという可能性も十分にあった。そういうことになれば、後継者をめぐる陰謀が渦巻いて収拾のつかない事態になるだろう。ナポレオンにとって、名門王家から新しく妻を迎え、その妻に子どもができるというのが一番理想的だった。しかし、ナポレオンはジョゼフィーヌに断ち切りがたい愛着を感じていた。ファーストレディになってからのジョゼフィーヌは、国内政策上、外交上、いろいろとナポレオンを支え、助けてきた。戦場にあっては敏速果断な常勝将軍、鉄の意志を持つ男ナポレオンも、離婚をめぐっては、迷いに迷い続ける。国家的理由は「離婚すべし」と言い、個人的感情は「離婚すべきではない」と言うのだった。ナポレオンは実にありとあらゆる可能性を検討する。たとえば、ほかの女性に子どもを産ませ、それをジョゼフィーヌが産んだように偽装する、といったことまで。
最終的には国家的理由を優先させて離婚を決断したわけだが、その決定的要因とは何だったのだろうか?1808年に始まり、ナポレオンの最初のつまづきとなったスペイン戦争だったように思う。
プリュードン「皇后ジョゼフィーヌ」ルーヴル美術館
アングル「帝位についたナポレオン」パリ軍事博物館
「マリア・ヴァレフスカフランソワ・ジェラール伯爵夫人」ワルシャワ ヴィラヌフ宮殿 美術館
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