ジョゼフィーヌという生き方5 修道院生活
夫をあきらめ、活気があり華やかなパリで二人の子どもを抱えて生きていく決断をしたジョゼフィーヌにまず必要だったのは生活費。彼女は叔母でありアレクサンドルとの結婚の責任者でもあったルノダン夫人に相談する。ルノダン夫人は、とりあえず修道院に身を移すこと、そしてできるだけよい条件で別居(アレクサンドルが生きている限り離婚はできない)ができるよう裁判所に訴えて争うことを勧める。そしてジョゼフィーヌにぴったりの社交界のようなパンテモン修道院を見つけてきてくれた。
ここで注意しなければならないのは、一口に修道院と言ってもパリには様々な修道院があったということ。アレクサンドルは、不貞を働いた(と自分が信じた)ジョゼフィーヌを修道院に閉じ込め、神への祈りの中で「悔い改めた妻」として生涯を遅らせようとしたのだろうが、そんな修道院ばかりではなかったのだ。パンテモン修道院の規則は二つだけ。一つは、毎日ミサに出席すること、もう一つは外泊しないこと。この二つさえ守れば外出も訪問を受けるのも自由であり、部屋で何をしてもよかった。そしてこの修道院には、名を知られた大貴族の奥方もいれば、恋の道にかけては百戦錬磨という女性もいた。そこには、ジョゼフィーヌが切望しながら近づけなかった世界、社交界の雰囲気がただよっていた。ジョゼフィーヌは、修道院に入っていた貴族やブルジョワの夫人たちとの付き合いを通して、貴婦人とはいかなるものかということを自然に体得していった。立ち居振る舞い、服の着こなし、流れるような優雅な足どり、何気ない微笑み、何気ない一言、とっさの機転など。机の前ではどんな知識も身につけられなかった彼女は、修道院では目覚ましい進歩を見せた。
また翌々年の春、アレクサンドルとジョゼフィーヌの間に協議別居が成立。オルタンスの認知、二人の子どもの養育費(年6千リーヴル)を勝ち取った。こうして自由の身となった(ただし再婚はできない)ジョゼフィーヌは、1785年9月、1年10か月過ごした修道院を出て、フォンテーヌブローに移っていたボアルネ侯爵とルノダン夫人の家に戻る。ここで3年近くを過ごすが、このフォンテーヌブロー時代はジョゼフィーヌの自己教育の仕上げの時期だったと言っていい。すでにパンテモン修道院で貴婦人とはどうあるべきかについての基本は完全にマスターしていた。あとは実地に試してみるだけ。フォンテーヌブローにはフォンテーヌブロー城があり、秋の狩猟期になれば、国王と王妃が廷臣一同を引き連れて城に数日間滞在する習いだった。幼いころからマリー・アントワネットの舞踏会に出るのが夢だったジョゼフィーヌは、少しでも宮廷に近づくためにいろいろな人脈をたどる。こうしてジョゼフィーヌの愛の遍歴がスタートする。クルネ伯爵、ロジェ公爵、コワニィ騎士。いずれも宮廷でかなりの地位にあり、また愛の道にかけても達人だった3人の愛人のおかげでジョゼフィーヌは国王の狩猟に参加することに成功する。
しかし、このままパリの社交界デビューとはいかない。1788年夏、ジョゼフィーヌが5歳になる娘オルタンスとともに向かったのは生まれ故郷マルチニック島。父と妹が重い病にかかっていたのでその見舞いのためである。そして、マルチニックでも新たな恋に憂き身をやつすが、その滞在中にジョゼフィーヌの運命を大きく変える出来事が勃発。フランス革命である。この革命に影響され、1790年9月には、マルチニック島でも反乱がおきる。ジョゼフィーヌは愛人に借金をし、愛人の船で命からがらフランスに戻る。
フランスでは驚いたことに、別れたアレクサンドルが国民の英雄となっていた。彼は、持ち前の教養を生かして立憲国民議会の議員となり、サロンで振るいたいと願っていた弁舌を、議会やクラブで振るって大人気だった。そして1791年6月、アレクサンドルは立憲国民議会議長となり、国のトップに立つ。この月に、フランス革命の分岐点となる「ヴァレンヌ逃亡事件」(国王一家が国外逃亡を図り、国境近くの村ヴァレンヌで正体を見破られ、パリに連れ戻された事件)が起こったが、ヴァレンヌからパリに連れ戻された国王一家が乗っていた馬車の鍵を政府代表として受け取ったのもアレクサンドルだった。アレクサンドルは一躍時の人として脚光を浴びる。このときジョゼフィーヌはフォンテーヌブローの義父の家にいたが、家の周りに人が集まってきて、息子のウジェーヌと娘のオルタンスを指し、「あれこそ我々の王太子と王女だ!」と叫ぶようなこともあった。
パリに連れ戻される国王一家(「ヴァレンヌ逃亡事件」)
1789年7月14日バスチーユ監獄襲撃
ヴィジェ=ルブラン「マリー・アントワネット 1788年」ヴェルサイユ宮殿
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