江戸の名所「深川」⑨時代小説と深川(1)藤沢周平1

 藤沢周平は、『私の「深川絵図」』(『深川江戸散歩』所収)の冒頭で、こう書きだしている。

「私の小説に市井物という分野があって、よく深川を舞台にした物語を書く。もちろん、深川だけでなく、神田、下谷、浅草、本所といった、現在の中央区、さらには台東区、墨田区に相当するあたりもよく書くけれども、小説に登場する頻度から言うと、やはり深川、現在の江東区が圧倒的に多いだろうと思う。」

 では、「なぜ小説を書くときに、ほかの場所よりも深川に魅かれるのか」については、まず「その土地を縦横に走る掘割である。」とした上で、こう述べる。

「町を縫う水路、物をはこび、人をはこぶ舟の行き来は、深川の町々に水辺の町といった一種独特の風情をつけ加えていたに違いない。春の草花が咲き茨の蔓がはう岸辺には、柳なども植えられたかも知れず、河岸の荷揚げ場や、船宿の舟着き場はしじゅうにぎわい、そのそばを時には燕が飛びすぎたろうし、また油堀の一直線の水路は、日暮れには江戸の町の向こうに落ちる日に赤々と染まったかもしれない。」

 しかし、これだけの理由で深川を小説の舞台として最も多く選んだわけではないようだ。

「このようなむかしの深川についての想像は、たしかに創作意欲を刺激するものだが、これだけでただちに心惹かれる小説世界がうかび上がって来るわけではない。この風景に、深川の岡場所のにぎわいというものを加えて、はじめてこの土地を舞台にした物語が、具体的に見えてくるように思うことがしばしばある。」

 そして、岡場所のにぎわいは、必ずしも物語の中心にある必要はなく、単に物語の背景でしかない場合であっても、「背景に門前仲町を中心とする岡場所を持って来ることで、物語がにわかに生彩を帯びて来る」と書いている。深川が舞台の『霧の果て』の中の第6話「日照雨(そばえ)」を例に見てみよう。

 蛤町の米問屋奥州屋の次男坊重吉が北川町でメッタ刺しで殺された。重吉は「親泣かせのどら息子で、女をひっかける、酔ったあげくは喧嘩する、どっかにもぐりこんで手なぐさみをやっているらしいという奴で、近所じゃ鼻つまみにされていた男」。重吉が通っていた賭場は、網打ち場のそばの小料理屋で、網打ち場の妓楼の亭主がやっている店である。「網打ち場」とは江戸深川にあった下級の遊里のひとつ。深川には有名な岡場所だけでも七か所あり、俗に「深川七場所」と呼ばれた。「仲町」、「土橋」、「新地」(大新地と小新地)、「石場」(古石場と新石場)、「裾継」(すそつぎ)、「櫓下」、「あひる」(佃新地)の七か所。これら「深川七場所」以外にも、重吉が通っていた賭場がある「網打場」や「おたび」、「三角屋敷」、「三十三間堂」に岡場所はあった。

 玄次郎(定町廻り同心)と銀蔵(岡っ引き)は重吉の情報を得るために、「洲崎の茶屋にいたころに重吉と知り合って、ひところは夫婦約束までかわしてだいぶ貢いでいたというんですが、捨てられてからやけになって、いまは新石場で女郎をしています。」というおたきに会いに行く。このおたきがいる新石場を藤沢はこう描いている。

「新石場は深川の南はずれにある場所である。六間堀の銀蔵の家からはかなりの距離があるが、二人は苦にせずせっせと歩いて、七つ(午後四時)前にはそこに着いた。

 もとは海に面した中洲だったところを埋め立て、茶屋、女郎屋を公許して遊所としたところで、ほかに十数軒の船宿もあり、にぎやかな場所である。

 だが、深川のほかの岡場所にくらべると、新石場は建物も新しく、やはり新開地といった趣きがある。海が近いせいか、日射しまでからっとしているので、よけいにそう感じるのかも知れない。歩いて行くと汐の香がした。

 船を雇って海釣りに出る人がいるらしく、町にはけっこう人通りがあった。玄次郎と銀蔵は町に入ると足どりをゆるめ、おたきがいる小松屋という女郎屋の軒をくぐった。」

 ちなみに、現在「新石場」の地名は残っていないが、「古石場」は町名だけでなく、「古石場川親水公園」、「古石場図書館」などで用いられている。

北斎「富嶽三十六景 深川万年橋下」

清長「当世遊里美人合 多通美」

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