「ヴェネツィア ″Una città unica al mondo″」9 誕生と発展③
ヴェネツィア共和国のトップはドージェ(総督、元首)。697年に就任した初代のパオロ・ルーチョ・アナフェストから1797年に失脚したルドヴィーコ・マニンまで1100年間で120代を数える。肖像画で有名なのは、65代フランチェスコ・フォスカリ(ラッツァーロ・バスティアーニ画 ヴェネツィア コッレール美術館)、72代ジョヴァンニ・モチェニーゴ(ジェンティーレ・ベッリーニ画 ヴェネツィア コッレール美術館)、75代レオナルド・ロレダン(ジョヴァンニ・ベッリーニ画 ロンドン ナショナル・ギャラリー)、77代アンドレア・グリッティ(ティツィアーノ画 ワシントン ナショナル・ギャラリー)など。しかし、軍事的対立と同時に貿易を併存させるという18世紀に至るまでのこの国家の手法を確立し、ヴェネツィア共和国を発展の軌道にのせたドージェといえば、26代ピエトロ・オルセオロ2世(在位:991年~1008年)。当時のキリスト教世界には東西に大帝国(東ローマ帝国と神聖ローマ帝国)が存在したが、その間にあって国家経営を貿易の自由な拡大の上に据えた。
ヴェネツィアが、誕生以来帰属していたのは東ローマ帝国(ビザンツ帝国)。
「ローマ帝国の崩壊後、潟に守られた小島の脆弱ながら町らしきものが出現して以来、ヴェネツィアは、コンスタンティノープル(別名ビザンティウム、現在のイスタンブール)に本拠を置いてローマの栄光を受け継ぐ東方の国、ビザンティン帝国の支配下にあった。誕生以来数世紀にわたって、西欧の大半が文化暗黒時代にある中で、ヴェネツィアはビザンティン帝国の勢力圏内で成長することができた。ときにはビザンティンに庇護を求め、ときには傭兵として働く。ヴェネツィアは宗主にきわめて忠実だったので、皇帝の一人などはヴェネツィアを『ビザンティウムの愛娘』と呼んだほどだった。」(ジャン・モリス『ヴェネツィア帝国への旅』)
しかし、少しずつビザンツ帝国の支配を脱し、事実上の独立を実現してゆく、東西の両帝国の間でバランスをとりながら。
まず東ローマ帝国(ビザンツ帝国)との関係。彼は、ヴェネツィアがビザンツ帝国に与える、海上での支援をうまく利用しながら密接な信頼関係を打ち立てる。992年には、ヴェネツィア商人たちは、彼らの商品にかかる税を軽減してもらい、首都の金融業者たちと直接取引する権利を得た。1000年には、ネレトヴァ川のスラブ人海賊を鎮圧し、ヴェネツィア人がそれまで払っていた年貢を取りやめさせ、ダルマティア地方沿岸の広範囲にわたってその権限を確立する。
神聖ローマ帝国とは、996年、元首オルセオロはヴェネツィア人のために、ピアーヴェ川とシーレ川の岸に倉庫や商館(フォンダコ)を設置する権利を獲得し、神聖ローマ帝国内でのヴェネツィア人の自由通行と免税を保証させる。さらに1001年には、皇帝オットー3世とヴェネツィアで密会し、自国の西側陣営への参加をきっぱり拒否したうえで、ヴェネツィアが神聖ローマ帝国に年貢を納める義務を取り消させる。
二つの巨大な勢力の狭間で均衡をとりながら進むことが、ヴェネツィアを常に緊張させ前進させたのである。そして、この均衡を背景として、ヴェネツィア商人はパヴィア(神聖ローマ皇帝は12世紀までイタリア王としての戴冠式を挙行)へ、アペニン山脈を越えてナポリ、アマルフィへ、またアルプスを越えてドイツ・北欧へと進出していった。他方東に向かってはアドリア海南東に乗り出し、ペロポネソス半島を迂回し、再び北上してコンスタンティノープル、時には黒海沿岸にまで至った。さらにイスラム勢力とは力で対決すると同時に外交を駆使しつつ交易をおこなった。闊達な貿易、抜け目ない外交、攻撃的軍隊こそ、以後800年にわたるヴェネツィア共和国の国家方針の基本だが、それを確立したのは26代ピドージェのエトロ・オルセオロ2世だった。
(1000年頃のヴェネツィアとその周辺)
(26代元首「ピエトロ・オルセオロ2世」)
(75代元首「レオナルド・ロレダン」ジョヴァンニ・ベッリーニ画 ロンドン ナショナル・ギャラリー)
(77代元首「アンドレア・グリッティ」ティツィアーノ画 ワシントン ナショナル・ギャラリー)
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