「ヴェネツィア ″Una città unica al mondo″」7 誕生と発展①
誕生当時のヴェネツィアの雰囲気を味わうにはトツチェッロ島に行く必要がある。ヴェネツィア文化の発祥地であり7世紀には人口1万人を数えたといわれるが、今はほとんどいないひっそりとした島。5世紀から10世紀までラグーナの最も重要な町として栄えたが、川が運んでくる土砂によって沼地になるに従い、マラリヤがはやり、次第に衰え、住人はムラーノやヴェネツィア本島(中心はリアルト)に移った。しかし、そもそもこのラグーナに人々が住むようになったころ、肥沃なロンバルディアの平原と比較すればこの地はマラリアが蔓延し、取るに足らぬ集落しか営めないような沼沢地だった。そんな場所で人々はなぜあえて生活を営もうとしたのだろうか?実は、ヴェネツィアに移って来た最初の住人達は、恐怖にかられた人々だったのだ。
その恐怖の原因はゲルマン民族の襲来。まず402年、王アラリクスの率いるゴート族がアクイレイアに攻め入り、その一帯を破壊したため、住民は一時的にラグーナの中へ避難。452年にはさらに激しいフン族アッティラの襲来が北イタリアを荒廃に導く。地域の住民は今回もラグーナへ救いを求めて避難。また476年、西ローマ帝国を滅ぼしたオドアケルがイタリア王となったが、イタリアに侵入した東ゴート族の王テオドリクスに暗殺される。そしてテオドリクスはラヴェンナに居を構えてみずから王を名乗り、現地の行政を役人たちに委ねる。そこで、この地の住民もラグーナへ向かわなければならなかった。
当時、ラグーナに避難した人々はどのような生活を送っていたか。テオドリクスの宰相カッシオドルスのラグーナの住民の幹部たちに宛てて書かれた手紙がその様子を伝えている。
「・・・潮の満干の絶えないそのあたりでは、上げ潮になれば景色が水に隠れ、引き潮になればまた姿をあらわす、という具合で、平地は繰り返し洪水に見舞われる。ここではあなたがたの家は、まるで水鳥のそれのようにできている。というのも、たった今地面がつづいていた場所が、まったくキクラデス諸島にでもいるように、島になったかと思うと、突然ふたたびもとの風景が現れるのだ。この広大な眺めの中で、家々がはてしなく広がる水面のあちこちに散らばっている。自然の産物であるこれらの家はしかし、人間の努力によって作り出されたものなのだ。事実、あなたがたは風にゆれる葦の茂みの中に地面を固め、かくも頼りない設備でもって海流に対抗できると信じてがんばっている・・・住民のもつ資源といったら、ただひとつ、魚しかない。けれども、この魚だけは有り余るほどある。だからここでは、貧しい者も豊かな者と対等に生活している。唯一の食料が皆に力を与え、だれもが同じような家に住んでいる。あなたがたは家の守神[のおかげで得られる幸運や財産]のことで隣人をねたむこともなく、この世に蔓延する悪習も知らずに節度ある生活をいとなみ、塩田の開拓にひたすら精を出している・・・」
ラグーナに点々と居住していたヴェネツィア人の糧は漁業と塩田だった。魚と塩とでヴェネツィア人は必要な品々の購入ができた。ここに彼らがその天職として交易によって立つ基礎があったのであり、他方、漁業と製塩とは万人にひとしく開かれた平等の職業なのであって、やがて訪れる共和政の基礎であった。ヴェネツィア人は協力して海水を管理し、陸地を構築し、橋を架け、水路を開削した。困難な飲料水の確保、寒さの厳しいヴェネツィアでの燃料確保、公衆衛生維持には、全体の一致協力が不可欠だったのである。
568年から570年になると、ランゴバルト族がポー川流域平野に定住し、パヴィアのあたりに王国を築く。そこで地元の住民は、今回は群れをなして、しかもラグーナにとどまる意図で避難を始めた。司教座が置かれていたアクイレイアの総大司教は、グラードに居を移す。トレヴィーゾから逃げてきた人々はリアルトの島々やトルチェッロに、パドヴァからはマラモッコに、フリウリ地方からはグラードやカオルレに、それぞれ集落を作る。トルチェッロ大聖堂が完成した639年、ランゴバルド族がオデルツォを包囲すると、ビザンツ帝国の総督はピアーヴェ川下流にチッタノーヴァ(皇帝ヘラクレイオス【在位:610年 - 641年】にちなんでエラクレアとも呼ばれた)という新しい町を建てる。そして697年、ここエラクレアで初代ドージェ(総督)パオルッチョ・アナフェストが選ばれた。ヴェネツィア共和国誕生である。そしてこの共和国はナポレオンによって1797年滅亡するまで、きっちり1100年にわたって続くことになる。
(サンタ・マリア・アッスンタ大聖堂 トルチェッロ島)
(トルチェッロ島)
(古代ヴェネツィア周辺地図)
(女性や赤子を蹂躙するフン族騎兵 デ・ノイビル画 19世紀)
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