キリスト教の教え9 イエスの誕生⑤
「キリスト讃歌」と呼ばれる歌がある。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(「フィリピの信徒への手紙」2章6~9節)
イエスは「人間の姿」でこの世に誕生した。「人間と同じもの」として十字架の死に至るまで生きた。そして人間の心と体を持つことで、人間の喜びや痛みや悲しみを人間が味わうのと全く同じように味わうことになった。だから、神の子でありながら人間の悩みや苦しみも全てわかる。パウロは言う。
「この大祭司(注:イエス・キリストのこと)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(「ヘブライ人への手紙」4章15~16節)
しかも、飼い葉桶に始まり、ゴルゴダの丘に終わるイエスの生涯は、「栄光の道」「王者の道」ではなく「僕(しもべ)の道」「仕える者の道」だった。弟子たちの中でだれが一番偉いかという議論が起きた時、一番上になりたい者は、僕にならねばならないとイエスは教えた。
「イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。』」(「マルコによる福音書」10章 42~45節)
そして、「僕」「仕える者」の究極の姿は、人間が神との結びつきを回復できるように、自らは罪を犯していないにもかかわらず、全ての人間の罪を請け負い十字架に架かったことに表れている。それがいかに苦しみを伴うものだったかは、ゲッセマネの祈りが伝えている。
「一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、『わたしが祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。』少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。』」(「マルコによる福音書」14章32~節)
イエスの誕生、十字架上の死、復活。それが行われたのは、今から約2千年前、場所は現在パレスチナと呼ばれる地域、そして同地域に住むユダヤ民族がローマ帝国の支配に服しているという歴史状況の中でのことだった。このように、神の計画が人間の具体的な歴史状況の中で実施されたことによって、目撃者や証言者が生まれ、彼らが残すことになる記録も生まれた。それによって、同時代の人たちも後世の人たちも神の人間救済計画が実現したことを信じる手がかりを得ることになったのである。
「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(「ヨハネによる福音書」20章 31節)
(ジョヴァンニ・ベリーニ「オリーブ山での祈り」ロンドン・ナショナルギャラリー)
(エル・グレコ「ゲッセマネの祈り」ロンドン・ナショナルギャラリー)
(ビセンテ・マシップ「ゲッセマネの祈り」プラド美術館)
(フォード・マドックス・ブラウン「ペトロの足を洗うイエス」ロンドン テート・ブリテン)
(ベラスケス「キリストの磔刑(サン・プラシドのキリスト)」プラド美術館)
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