キリスト教の教え2 神による人類救済計画②

 キリスト教の神は愛の神、と言われ以前は違和感を覚えた。「罰する神」、「不寛容な神」のイメージが強かったからだ。堕落した世界を一掃するために大洪水を起こした「ノアの箱舟」、男色が横行し、堕落しきったソドムの町に硫黄の火を降り注いで焼滅ぼした「ソドムとゴモラ」の話などから。しかし、聖書を読み進めていくうちに少しずつそのイメージは変わっていった。大きなきっかけとなったのは、「ソドムとゴモラ」の次の記述。

「主は言われた。『ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。』」(創世記18章20~21節)

 この後、アブラハムと神の対話が続く(創世記18章23~33節)。

「アブラハムは進み出て言った。『まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。』

主は言われた。『もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。』

アブラハムは答えた。『塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。』

主は言われた。『もし、四十五人いれば滅ぼさない。』

アブラハムは重ねて言った。『もしかすると、四十人しかいないかもしれません。』

主は言われた。『その四十人のためにわたしはそれをしない。』

アブラハムは言った。『主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません。』

 主は言われた。『もし三十人いるならわたしはそれをしない。』

アブラハムは言った。『あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかもしれません。』

主は言われた。『その二十人のためにわたしは滅ぼさない。』

アブラハムは言った。『主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。』

主は言われた。『その十人のためにわたしは滅ぼさない。』

主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った。」

 唯一絶対の創造神、厳しく罰する神のイメージとは随分異なる、ある種人間的ともいえる神の姿。しかし、それだけではない。さらに、神に背き続ける民に対して、許しを叫び続ける神の姿に気付かされていった。「ホセア書」から。

 神は、偶像へ走り自分を裏切り続ける民の不実を嘆く。

「『エフライムよ わたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか。お前たちの愛は朝の霧 すぐに消えうせる露のようだ。』」(ホセア書6章4節)

 神は思い悩む。しかし、自分に背き続ける民を見捨てることができない。

「『わが民はかたくなにわたしに背いている。・・・ああ、エフライムよ お前を見捨てることができようか。イスラエルよ お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ 憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなく エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。』」(ホセア書11章7~9節)

(フランシス・ダンビー「大洪水」)

 (ミケランジェロ「大洪水」システィーナ礼拝堂)

(エドワード・ヒックス 「ノアの箱舟」)

(ジョン・マーティン「ソドムとゴモラの滅亡」)

(ベンジャミン・ウェスト 「ソドムを逃れるロトと娘たち」)

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