「大江戸の誕生」2「塩の道」

 何事も慎重に事を運ぶ家康は、豊臣秀吉が存命中は大規模な工事は控えた。しかし1598年秀吉が死去し、1603年家康が征夷大将軍となり江戸に幕府を開くと、遠慮することなく江戸の開発を未曽有の規模で始める。江戸防衛と水運拡大を狙って、周辺の水辺は大きく変更が加えられた。大規模な土木工事による海面埋め立て、河川の開削や掛け替えが行われ(なんと利根川の流れを変えることまで!それまで江戸湾[東京湾]に注いでいた利根川の流れを東へ変え、銚子から太平洋へと流れ込むようにした。1594年に始まったこの「利根川東遷事業」が終わったのは、4代将軍家綱の時代の1654年)、江戸は首府としての機能を劇的に高めていったのである。

 このことを船堀川(新川)、小名木川、道三堀の開削を例に見てみよう。家康は江戸入国後すぐに、下総国行徳(千葉県市川市行徳地区)の地が江戸周辺で最大の塩の産地であることを知り、その地を保護するとともに、その地から江戸までの水運を確保するために運河の開削を手がけた。生産地・行徳から船堀川(新川)・小名木川という海沿いの水路を開き、さらに江戸城の手前に道三堀という運河を開削したのである。かつて武田信玄が、小田原から運び込む塩のルートをふさがれて難儀したことを考慮したという。それにしても、沿岸から1キロほど内陸にわざわざ運河を開削しなくても、海を通ればよかったのではないか。しかし、このあたりの沿岸は遠浅の海で、砂州に阻まれて定期便の通行が困難だったためとか、沿岸沿いにいくつも河口があり、水流や風向きが複雑で安定した航行が困難だったためとかの理由で海岸沿いに水路を築いたようだ。こうして寛永9年(1632)に本行徳村の船場から積み替えなしで、大量の塩を運ぶ「塩の道」ができると、やがて塩に限らずさまざまな物資が、このルートを利用して江戸へと運ばれ、江戸経済の中枢と直結する。

 醤油を例にとる。元禄期(1688~1704)になり、大坂や江戸の消費市場が拡大するにつれ、醤油の生産量・消費量は伸び、値段も下がっていく。関東でも元和2年(1616)にヒゲタの創業者・田中玄蕃(げんば)が銚子で醤油醸造を始めたのを皮切りに、下総国・上総国・常陸国など各地で醤油づくりが行われるようになった。当初、関東醤油は安かったが、売れるのは値の張る上方産のほうで、江戸では下り醤油が圧倒的なシェアを誇っていた。だが江戸時代後期になると、そんな関東醤油が下り醤油をしのぐようになる。関東の醤油産地が江戸市民に好まれる味をつくり出したことがその最大の要因。この関東醤油の中でも名産地とされたのが銚子と野田である。この両者、関東で最初に醤油醸造を始めたのは銚子で、後発の野田はそれを追う立場だったが、最終的に江戸の市場を制したのは野田の醤油。それは輸送コストの差が大きかった。銚子から日本橋河岸までは、まず利根川をさかのぼる。関宿(せきやど)から江戸川に入り河口付近で船堀川(新川)に入り、小名木川、日本橋川を通って日本橋河岸の到着。10日以上の日数を要した。他方、江戸川沿いの野田からは1日で到着できた。

 ところで広重『名所江戸百景』に「小奈木川五本まつ」がある。小名木川の大横川と横十間川の中間地点に、大きく張り出している松がある所は五本松と呼ばれたが、この絵で描かれている松は1本だけ。他は枯れてしまっていた。この船(「行徳船」)に乗っているのは明らかに観光客。川面に手拭いを濡らしている客もいる。小網町の行徳河岸と行徳を結ぶ定期航路で、江戸近郊への観光経路として大いに利用された。特に、江戸時代後期には成田山新勝寺や鹿島・香取・息栖(いきす)の三社を参詣する旅が流行すると、舟を利用する人々が増える。小名木川の東端の中川口には「川の関所」である「中川番所」が設置され、江戸川・利根川水系の流通網を監視していたが、遊興の船の通関は次第に形式化していったようだ。こんな川柳が残っている。

      「中川は同じ挨拶して通し」   「通ります通れ葛西の鸚鵡石」

 船頭が「通ります」といえば、番所の役人は「通れ」と鸚鵡(おうむ)返しに応えていたようだ。

( 江戸に入津した特産物)

(塩の水路)

(『江戸名所図会』「行徳 塩釜の図」)

(『江戸名所図会』「行徳船場」)

(『江戸名所図会』「小名木川 五本松」)

芭蕉の句が添えられている。 「川上と この川下や月の友」

(広重「名所江戸百景 小名木川五本まつ」)

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