「カエサルに学ぶリーダーの条件」①組織とリーダー

「一頭の羊に率いられた百頭の狼の群れは、一頭の狼に率いられた羊の群れに敗れる」(ナポレオン)

 このナポレオンの言葉ほど、組織・集団におけるリーダーの重要性をシンプルかつ的確に示した表現を知らない。では、羊の群れを強力な組織・集団に育てあげるためには何が必要か。教育と訓練だろう。幕末の長州で生まれた奇兵隊のことが頭に浮かぶ。

 文久3年 (1863年)4月23日、幕府は朝廷に迫られ5月10日を期限として攘夷実行を諸大名に布告する。もちろん、こんな短期間で準備などできるわけがない、だから攘夷を実行する藩などないだろうと読んでの布告だ。しかし、一藩だけ実行した藩があった。長州藩だ。5月10日アメリカ商船ペンブローク号、5月23日フランス軍艦キャンシャン号、5月26日オランダ軍艦メデューサ号を砲撃。当然報復を受ける。6月1日、アメリカ軍艦ワイオミング号が報復攻撃。6月5日、フランス軍艦セミラミス号、タンクレード号が報復攻撃、上陸、砲台占拠。こてんぱんにやられる。この報復攻撃で明らかになったのは、外国軍の強さと同時に、武士階級の無力さだった。当時書かれたある匿名の文書にこうある。 「萩の家中は下関にてガチャ々々々致し候者逃支度在る躰を見て、町人百姓迄が武士と申す者はあの様に弱りて役に立たぬものかと皆々大いに歯がみ致し候由」

 この時、藩主毛利敬親は高杉晋作を呼び下関防禦の策について問うた。すると高杉は次のように即答した。

「馬関(下関)の事は、臣に任ぜよ。臣に一策あり。請う、有志の士を募り一隊を創設し、名付けて奇兵隊といわん」

 農民・町人が中心のこの奇兵隊。西洋式の装備や訓練を積極的に取り入れ、馬関戦争(四国連合艦隊下関砲撃事件)やいわゆる俗論派から主導権を奪取した藩内戦,第2次長州征伐,戊辰戦争などで活躍することになる。まさに羊の群れが、教育と訓練によって正規軍をしのぐ力を発揮したのだ。だから、リーダーは優れた教育者でなければならない。しかしそれだけでは足りない。

 カエサルの話をしよう。カエサルはルビコン川を渡った後、3年間ポンペイウス軍(元老院派)と内戦を戦うが、彼が率いた兵のうち6個軍団はローマ市民からなる正規兵ではなく、ガリア総督時代に現地のガリア人で結成(元老院の許可なく実施したので、元老院から攻撃される原因にもなった)された軍団だった。驚かされるのは次の出来事。内乱がはじまり、カエサル自身はスペインのポンペイウス軍との戦いに向かう。そして、配下のガイウス・アントニウスとドラベッラには、アドリア海の制海権をポンペイウス側から奪取しておくことを命じた。その後に予定されていた、ギリシアに渡ったポンペイウスとの決戦に備えるためだ。しかしポンペイウス軍に撃破され降伏。ポンペイウス軍を率いていた海将リボは、捕虜全員に、ポンペイウス側にたってカエサルと闘うならば命を助けると告げる。多くの兵がそれを受けた。しかし、その中でも少なくない数の百人隊長が、これを拒否して殺された。カエサルへの忠誠をまっとうするために死さえ選んだこの人々は、ローマ市民でもないガリア人だったのだ。なぜカエサルはそこまでの忠誠心を彼が征服したガリア人のなかに育てることができたのか。

 ヒントはカエサルが書いた『ガリア戦記』にある。カエサルが遂行したガリア戦争の記録である『ガリア戦記』は、もともと元老院への戦勝報告書だが、そこ描かれているのはカエサルの華々しい活躍(ローマ本国民衆の熱狂的カエサル支持をもたらした)だけではない。戦った相手であるガリア人やゲルマン人の文化、風習まで詳細に書かれている(例えば、第4巻「スエービー族の風習」、第6巻「ガリアの風習」「ゲルマニアの風習」)。そして時には、それらの文化に対して敬意すら払っている。征服者が被征服者を蔑むような意識とは無縁だ。もちろんカエサルの事、それらを把握して戦略・戦術にいかしただろうが、それ以上に征服後の共存の道を模索してのことだったように思う。実際カエサルは、内乱終結後ローマの主神を最高神ユピテルとその妻ユノ-、ミネルヴァの三神と決め、属州でも、この神々を祭る日は休日とすると決めたが、信仰を強制することはなかった。ガリア戦争中、カエサルに抵抗したガリア人の中核だったガリアの祭司階級(ドルイド)さえ温存した。ガリアの土着宗教を信ずる人にとってのユピテル祭日は、ただの休日にすぎなかった。このようなカエサルのやり方に、最も熱狂的に反応したのは一神教民族であるユダヤ人。多神教のローマの宗教を強制されなかったからだ。カエサル暗殺の報に接して他の誰よりも嘆き悲しんだのは、ユダヤ人であったと言われる。

(奇兵隊 )

(「ユリウス・カエサル」ヴァチカン美術館)

(ドルイド)

0コメント

  • 1000 / 1000