「フランス革命の光と闇」②改革者ルイ16世
国王ルイ16世も王妃マリー・アントワネットもギロチンで処刑された。それだけではない。「革命裁判所」(1793年3月10日創設、1795年5月31日廃止)は、反革命分子を弾圧するために2年2カ月の間に5343人を裁判にかけ、2747人を処刑した。まさに「恐怖政治」=「テルール」(「テロ」の語源)だった。そして、フランス革命はこの「恐怖政治」のイメージに重ねてとらえられがちだ。しかし、フランス革命の時代は10年間。1789年バスティーユ監獄襲撃に始まり、ナポレオンが政権を掌握した1799年のブリュメール18日のクーデターで終わったとされる(通説)。そして、革命当初は王の処刑どころか王政の廃止など全く目標にしていなかった。むしろ逆だった。革命初期のスローガンは「国民、国王、国法!」。国民と国王が一致協力して改革を推し進めていけば素晴らしい世の中になる、と人々は楽観的に信じていた。革命が勃発した1789年の時点で王政を廃止しようなどと思っていた人はフランス中に1人もいなかったと言われるほどだ。ジャコバン派の指導者として恐怖政治を中心的に実行し、国王裁判の最先鋒に立ったマクシミリアン・ロベスピエール(Wikipediaは「史上初のテロリスト(恐怖政治家)」などと記述している)でさえ、革命勃発後もなお2,3年間は国王びいきだった、あまり知られていないが。
そもそもフランス革命は、国王批判が出発点にはなっていない。革命の進展の中でルイ16世を風刺するカリカチュアが多数出版され、「王妃マリー・アントワネットの尻に敷かれた無能な国王」のイメージがふりまかれたが、むしろ啓蒙専制君主と呼ばれる皇帝ヨーゼフ2世(マリア・テレジアの長男)などよりはるかに有能な国王だった(近年、フランスでもルイ16世再評価の動きは進んでいる)。イギリスという専制から自由と独立を勝ち取ろうとしていた植民地アメリカを支援し、啓蒙主義の時代的流れを推進した。その結果、財政をさらに悪化させ、その面ばかりが強調されがちだが、その問題解決のために、175年ぶりに「三部会」(国王の諮問機関の議会)を開催しようとしたのはルイ16世である。
当時のフランスの人口構成は、特権階級の第一身分(僧侶)が0.5%、第二身分(貴族)が1.5%、非特権階級の第三身分(平民)はブルジョア3.8%、非農勤労者7.5%、農民86.7%。わずか2%の特権階級が国民の98%を支配していた。しかも、教会・修道院、貴族は広大な土地を領有しながら非課税という信じられないような特権をむさぼっていた。ルイ16世はここにメスを入れようとしたのだ。
三部会開催の準備が始められる。何しろ175年間開催されていなかった。まず議員を選ぶことから始めなければいけない。選挙人集会が開かれる。議員を選ぶことが主な目的だがそれだけではない。ルイ16世は国民の不満、要求を集約しようと陳情書の提出を求める。集まった数、なんと約6万。体制批判の書も続々出版。シェイエスの「第三身分とは何か」が有名だが、他にもミラボー「プロヴァンス人に訴える」、ロベスピエール「アルトア人に訴える」、カミーユ・デ・ムーラン「フランス人民への哲学」など。長年、旧制度(アンシャンレジーム)のもとで虐げられてきた民衆がついに目覚める。
(ルイ16世の風刺画) マリー・アントワネットの尻に敷かれるルイ16世
(ルイ16世の風刺画) 大酒飲みで頭が弱いと揶揄されている
(貧民を見舞うルイ16世)1788年~1789年 冬
(ジョゼフ・デュプレシ 「ルイ16世 1778年頃」ヴェルサイユ宮殿)
(風刺画「第三身分の目覚め」)鎖をほどき、立ち上がろうとする平民に驚く貴族と僧侶
(1789年7月14日バスチーユ監獄襲撃)
(マクシミリアン・ロベスピエール、1790年頃)
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