「英仏百年戦争とシャルル7世」
シャルル7世と言えば、あのジャンヌ・ダルクが危険を冒してシノンまで会いに行き、そしてランスまで連れて行って戴冠させたフランス国王。しかし彼は、ジャンヌがコンピエーニュで囚われの身となっても、恩人であるはずの彼女の救出策を講じることはなかった。その理由ははっきりしない。イギリスと結んだブルゴーニュ公に期待を抱いていたシャルル7世にとって、戦闘的すぎるジャンヌの存在が妨げになったのかもしれない。あるいは、オルレアン解放以来高まるジャンヌの名声に嫉妬、脅威を感じたのかもしれない。
いずれにせよシャルル7世は、イギリスとの戦いには消極的。ブルゴーニュ公の真意、野望にも気づかない。ジャン・フーケの肖像画を見ても、疑い深さ、優柔不断さ、気難しさが滲み出ている。そんな彼が、やがてイギリス軍への攻勢を強め、1436年にはリシュモン元帥率いるフランス軍がパリに入城、その後、1450年にはノルマンディを攻略、1453年にはギュイエンヌを回復し、カレーを除いてほぼフランス本土からイギリス軍を撤退させ、百年戦争を終結させ、そのため、シャルル7世は「勝利王」といわれることとなった。一体、シャルル7世はどうしてこのように積極性を取り戻していったのか?
シャルル7世を奮起させた原因は。フランス宮廷史上初の公式愛妾だったアニェス・ソレルの存在が大きい。ブラントーム『好色女傑伝』は、どのようにしてアニェス・ソレル がシャルル7世を奮起させたかを、次のように記述している。
「 美しいアニエスは、国王シャルル七世が彼女に夢中で彼女と寝ることにしか心を向けず、無理力で、国のことを少しも考えないでいるので、ある日、国王に告げた。幼いころ、占星術師が、彼女はキリスト教国でもっとも雄々しく、もっとも勇敢な国王に愛され尽くされると予言した、と。 シャルル七世が彼女を愛するようになったとき、彼女はこの国王こそ予言されていた雄々しい国王だと思った。けれども、国王があまりにも無気力で、国事にもほとんど関心を持たないでいるのを見て、彼女は自分がまちがっていた、勇気ある国王は彼ではなく、イギリス国王なのだと気がついたのである。イギリス国王は優秀な軍隊を持ち、美しい町を次々と手にしていたからだ。 ですから、と彼女は国王に言った。あの方のところに参ります。なぜなら、占星術師が語ったのはあの方だからです、と。」
惚れ込んだ女性にこんなふうに言われたら、そりゃ誰だって奮起するに違いない。ところでジャン・フーケ。イタリアを旅行し、初期ルネサンスをイタリアに紹介した最初の芸術家。アニェス・ソレルをモデルに、片方の乳房を露わにした「天使に囲まれた聖母子」(アントワープ王立美術館)を書いたのが1450年ごろ。すでに、マザッチョはサンタ・マリア・デル・カルミネ大聖堂ブランカッチ礼拝堂(フィレンツェ)で「楽園追放」(1427年~27年)を描き、ドナテッロはブロンズの「ダビデ像」(バルジェロ美術館、1440年頃)を制作している。ジャンヌ・ダルクがルーアンで火刑にあった頃(1431年)、イタリアでは初期ルネサンスがすでに花開いていたのだ。
(ジャン・フーケ「シャルル7世」 ルーヴル美術館)
(ジャン・フーケ「天使に囲まれた聖母子」アントワープ王立美術館)
(マザッチョ「楽園追放」ブランカッチ礼拝堂)
(ドナテッロ「ダヴィデ像(ブロンズ)」バルジェロ美術館)
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