「魂の画家」ゴッホと「ひまわり」
「ひまわりの画家」と呼ばれるゴッホ。「ひまわり」はゴッホの代名詞にもなっている。彼がその「ひまわり」を描いたのはごく限られた時期、1887年春ごろから89年1月までの2年間だ。それは、ゴッホが南フランスの太陽に憧れ始めた時期と重なる。ゴッホがパリをあとにして念願の南フランス・アルルに向かったのは1888年2月。なぜゴッホはアルルに向かったのか?そこに「光に満ちた国日本」があると思ったからだ。
「 ぼくは日本の絵画を愛し、その影響を受けている。このことはすべての印象派画家について言え
る。それなら、どうして日本へ、つまり日本にあたる南フランスに行かずにいられようか」
(1888年6月 弟テオ宛書簡)
そして「日本」、「日本人」をモデルに兄弟愛に満ちた芸術家の共同体を実現しようとする。しかしゴッホの呼びかけに応えて「黄色い家」に来たのがゴーガンただひとり。「ひまわり」は、その家の装飾として描かれた。
「 ゴーガンと一緒にぼくのアトリエで暮らせるという希望を持ちながら、ぼくはアトリエのための
装飾画を描いてみたいと思っている。大きなひまわりだけの装飾を。」
(1888年8月 弟テオ宛書簡)
太陽(=神、キリスト)に顔を向け続ける「ひまわり」は、「信仰心」、「愛」の象徴。ゴッホにとって「ひまわり」ほど兄弟愛に満ちた芸術家共同体にふさわしい花はなかった。しかし、ともに強烈な個性を有する芸術家の共同生活が長く続くはずがない。「耳切り事件」によってユートピアは崩壊。苦悩するゴッホは、魂の拠り所を求めてさらなる格闘を続ける。
「 ぼくのような苦しみの多い人間は、自分よりも偉大な何ものかなしにはやっていけない。それは
ぼくの生であり、創造の力だ」 (1888年9月 弟テオ宛書簡)
1890年7月27日、ゴッホは自らの腹に銃弾を撃ち込む。そして2日後、息をひきとる。 享年37歳。画家となることを決意した27歳から、画業はわずか10年。しかしその苦闘の軌跡としての彼の作品は、人々の魂を今も揺さぶり続ける。
(1888年8月 ゴッホ「ひまわり」ロンドン・ナショナルギャラリー)
(1888年3月 ゴッホ「ラングロワの橋(アルルの跳ね橋)」クレラー・ミュラー美術館)
「 空気の透明さと明るい色彩効果のため僕には 日本のように美しく見える・・・・・。水が風景の中でエメラルド色と豊かな青の色斑をなして、まるで浮世絵の中で見るのと同じような感じだ。」
(1888年9月 ゴッホ「黄色い家」ファン・ゴッホ美術館)
「 日本の画家たちがお互い同士実際によく作品交換したことに、ぼくは前々から心を打たれてきた。これは彼らが互いに愛し合い、助け合っていて、彼らの間にはある種の調和が支配していたということの証拠だ。」
(1888年 ゴーガン「自画像 レ・ミゼラブル」ファン・ゴッホ美術館)
(1889年1月 ゴッホ「包帯をした自画像」コートールド研究所)
(1889年6月 ゴッホ「星月夜」ニューヨーク近代美術館)
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