人間の食欲とフランス革命

 ナポレオン3世はパリを大改造し、新しく生まれ変わったパリの街や人を自分の感性で描いた印象派の画家たち。彼らは、美術の基準自体も大きく変えていった。しかし、パリを舞台に起き、それまでの価値観を大転換させた出来事と言えば、なんといってもフランス革命。1789年8月26日に採択された「人間と市民の権利の宣言」いわゆる「人権宣言」は第1条で高らかにこう述べる。

     「 人間は自由なものとして生まれ、権利において平等である」

 身分や家柄ではなく、才能・実力が人生を決定する時代が幕を開ける。パリの食の風景も一変。貴族たちに奉公していた多くの料理人・菓子職人は貴族の国外逃亡によって、巷に放り出される。しかし、彼らは手に職を持っていた。美食で知られたシャンティ―城主コンデ公の厨房長だったロベールが、リシュリュー街104番地にレストランを開店。多くの弟子たちがそこから巣立っていった。革命前わずか50軒以下だったパリのレストランは、40年後の1827年には3000軒にまで達したという。

 革命は激しさを増し、「テロ」の語源となった「テルール」(恐怖政治)を生む。革命裁判所(1793年3月10日創設)は、2年2カ月の間に、5343人を裁判にかけ、2747人を処刑。今もシテ島に残るコンシェルジュリー。ここに入ったら、まず生きては出られないため、当時「ギロチンの控えの間」と呼ばれた。マリー・アントワネットも断頭台に散る直前の2カ月半をここで過ごした。ここに入れられた人々はどんな生活を過ごしたのか?メルシエは、死を目前にした囚人たちの驚くべき姿を伝えている。

 「犠牲者たちは、監獄で、胃の赴くところに従っていた。狭い窓口から、最高の肉料理が最後の

  晩餐を取る人々に手渡されるのが見られた。・・・牢屋の奥から、囚人たちはレストランと契約

  を結んでいた。初物に関する特別条項さえ含む契約文が、両当事者によって署名された。囚人

  接見に際しては、人々は、ボルドーや舶来のリキュール、最高級パテなどを持参して、囚人を

  慰めることを忘れなかった。」

               (ルイ・セバスティアン・メルシエ『革命下のパリ 1789~98』)

 恐るべき人間の食欲。「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人間か言いあててみせよう」この名言(『美味礼賛』)を残したブリア・サヴァラン。彼は同じ書の中で人間の食欲についてこう記している。

 「食卓の快楽は、あらゆる快楽と結びつくことができる。また、他のあらゆる快楽が消え去った時

  にも、最後まで残ってそれらの消滅を癒してくれる」。

 卓見である。さて、自分は最期の時に何を所望するだろうか。

(フランス革命の風刺画)

石の上に乗った第一身分(僧侶)と第二身分(貴族)の下敷きにされる第三身分(平民)

(革命前の貴族たちの生活)

  カルル・ヴァン・ロー「狩猟の合間の休息」(部分)ルーヴル美術館

(フランス革命の風刺画)

第三身分(平民)の目覚めに驚く第一身分(僧侶)と第二身分(貴族)

(現在のコンシェルジュリー)

(ブリア・サヴァラン『美味礼賛』 Physiologie du Goût「味覚の生理学」)

0コメント

  • 1000 / 1000