元治元年(1864)12月15日

 歴史を回天させた数々のできごと。その中で、その日を思い起こすだけで胸が熱くなる出来事がある。元治元年(1864)12月15日の功山寺決起!起こしたのは高杉晋作。前年、諸藩の中で唯一攘夷を実行した長州藩は四国連合艦隊(イギリス、フランス、アメリカ、オランダ)の報復攻撃の前に惨敗を喫した。さらに、7月15日の蛤御門の変。久坂玄瑞ら有能な人材を失ったうえ朝敵の汚名を着せられ、幕府は長州征伐を決定。動員された幕府軍15万。迎え撃つ長州軍2千。この事態に、長州の藩論は、幕府への「絶対恭順」を唱える「俗論派」一色に染まっていく。次々に粛清される、高杉ら正義派の有能な人物たち。このままでは、藩も滅び国も亡びる。高杉の脳裏に、亡き師吉田松陰の言葉が甦る。

 「死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべ

 し。」  

 今がまさにその「死ぬべき時」。しかし、高杉自身が創設した奇兵隊すら、暴挙だとして決起の呼びかけに応じない(当時、奇兵隊の事実上のトップは山県狂介、後の山県有朋)。12月15日、集合場所の功山寺に集まったのはわずか84人(その中には力士隊を率いた伊藤俊輔、後の伊藤博文もいた!)。それでも、高杉には十分な人数だった。伊崎新地(下関)の会所(役所)を襲い、武器、軍資金を確保し、三田尻(防府)では藩の軍艦も入手。高杉の呼びかけに呼応する兵の数は次第に増していく。やがて、奇兵隊も重い腰を上げる。藩軍との戦いにも勝利し、ついに藩政を奪還した(元治2年2月24日)。その後、坂本龍馬の仲立ちで薩長同盟が成立。薩摩とともに長州は、倒幕維新の中心として歴史の表舞台に出ていく。その出発点にあったのが、この高杉の功山寺決起だ。

 歴史を動かすのは、身分でも、家柄でも、学歴でもない。「志ある者が歴史を変える」。 それを、功山寺決起ほど実感させてくれる出来事はない。

(下関 功山寺)

(「高杉晋作の騎馬像」 下関 功山寺)

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