「海洋国家オランダのアジア進出と日本」10 蘭学
オランダ商館の平戸から長崎への移転当初はなおポルトガル語が日欧交渉の公用語であり、医学・天文・航海・軍事・土木など南蛮学の影響が濃厚であったが、鎖国とともにそれが退化し、代わってオランダ語を通じての西洋文化の移入の努力が展開した。とりわけ18世紀初頭、8代将軍徳川吉宗の時代前後から蘭学への志向が顕著となり、この世紀の末までにオランダ語の原典研究と、オランダ人からの学習により蘭学の基礎が確立した。
8代将軍徳川吉宗の、西欧科学の奨励、殖産興業の政策は、1740年ついに青木昆陽、野呂元丈の2人に命じてオランダ語を学ばせるに至る。これが大きな契機となって、杉田玄白がいう本格的な蘭学がおこり、杉田玄白、前野良沢らによるクルムスの人体解剖書の翻訳事業が1771年に始まり、1774年に日本で最初の西洋医学書の翻訳である『解体新書』(4巻)が出版された。この書の出現は日本の医学にとってまさに画期的なことであった。そしてこれが蘭学そのものに対しても大きな推進力となったのである。
江戸に主流を発した蘭学は、その後、しだいに京都・大坂をはじめとする諸地方へと広がっていった。ここで目につくのは、これら蘭学を率先して研究した人々は、大部分が民間の学者あるいは陪臣の医者であったことである。これは蘭学のもつ一つの大きな特徴であるが、幕府当局もようやく蘭学に対する認識を改め、1811年天文方に新たに蕃書和解御用(ばんしょわげごよう)の一局を設け、外国文書の翻訳に備えた。またこのころに、当時のオランダ商館長ドゥーフが長崎のオランダ通詞数人とともにハルマの蘭仏対訳辞書の和訳を試み、その第一稿が成り、蘭日辞書(『道訳法爾馬(ドゥーフ・ハルマ)』、別名『長崎ハルマ』)ができあがった。これによって蘭学は新しい段階を迎えたが、オランダ以外の諸外国との折衝が複雑化するにつれて、英語、ロシア語、その他の外国語の研究が行われるようになり、蘭学のもつ意味がそれまでのものとはすこしずつ変わってきた。そして洋学ということばが生まれ、使われるようになった。
日本に渡来した多くのオランダ商館医師のなかには、西洋の学問・技術を日本に伝えるという面で積極的に活動した人も少なくない。ケンペル(1690年来日)、ツンベルク(1775年来日)らはその例であるが、1823年に来日したシーボルトほど大きな足跡を日本に残した人はなかった。シーボルトは在日中に多くの日本人門下生を養成したばかりでなく、『日本』『日本植物誌』『日本動物誌』などを著し、積極的に日本をヨーロッパに紹介したことでも、とくに記憶されるべき人である。なお、1828年シーボルトの帰国に際して起こった事件(「シーボルト事件」帰国のさい,所持品中に禁制品の日本地図などが発見され,贈主の幕府天文方・書物奉行高橋景保ほか数十名の関係者が処分され,シーボルトは国外追放,再渡航禁止の処罰をうけた)は、その後、思想的に蘭学者を束縛するきっかけとなった。また渡辺崋山・高野長英ら進歩的な蘭学者による幕府批判(1837年米船モリソン号が日本漂流民返還のため浦賀に来航した際,幕府が異国船打払令によって撃退した事件を批判)が弾圧された「蛮社の獄」(1839)も、その後の洋学者に大きな影響を及ぼした。蘭学の時代の後期に、大坂に開かれた緒方洪庵の適々斎塾(適塾)は優れた蘭学者を多く輩出し(福沢諭吉や大村益次郎等)、明治時代の各界に多数の人材を送り込んだことは特筆されるべき業績といえる。
蘭学を介して行われてきた諸外国との折衝は、やがて直接的にそれぞれの国と交渉せざるをえなくなり、蘭学は一転して国防のための研究として行われるようになり、多分に軍事科学化した。一方、鎖国―開国、攘夷―通商と相反する主張が激しく戦わされるようになると、蘭学は本質的には開国の側にたったが、実際には幕府当局および諸藩の軍備充実のために大いに利用された。開国の国是が定まると、多くの外国人が渡来するとともに、オランダ語以外の外国語も伝えられ、ことに英語が非常な勢いで広まっていった。しかしそれでもオランダとオランダ語は大きな影響力を維持し続けていた。
『解体新書』(複製)
石川大浪「杉田玄白」
狩野忠信「徳川吉宗」
青木昆陽
川原慶賀「シーボルト_」
シーボルト 1875年
椿椿山「渡辺崋山」
椿椿山「高野長英」
五姓田義松「緒方洪庵」
適塾(大阪市中央区北浜3丁目)
適塾所蔵『ヅーフ・ハルマ』
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