「世界を変えた男コロンブス」1 世界史の大転換

「天地創造以来最大の事件は、キリストの受肉と死を除けば、インディアスの発見である」

(注:「インディアス」=スペイン人が発見、征服した中南米地方の総称。当時コロンブスはインド周辺諸国=インディアスに到達したと信じていた)

 これは、スペインの年代記作者フランシスコ・ロペス・デ・ゴマラ(1511年~1566年)の言葉である。キリスト教全盛の時代、この発言は重い意味を持っていた。しかし、それは誇張ではなかった。ヨーロッパがのちにアメリカとなった地を発見したことは、キリスト教の始まりと同じくらい、世界史を転換させたのである。大西洋を横断してアメリカに到達したコロンブスの航海は、この500年(正確には529年)の間に、世界市場に巨大な痕跡を加えてきた。ヨーロッパ人によって新大陸アメリカが領有されたばかりか、「大航海」の名のもとにヨーロッパの世界進出が促された。物資と人間の交流が開始れ、広大な植民地が建設されることになった。別々の論理で構成されていた複数の世界史は、その間に「ひとつの世界史」に統合されていった。その出発点として、コロンブス航海の意義ははかり知れない。

 しかし、スペイン国家とそしてヨーロッパとに莫大な利益をもたらすことになる彼の航海は、ヨーロッパ人の目から見れば発見であり征服の偉業かもしれないが、南北アメリカ大陸の先住民からすれば、「発見」以前からそこに住んでいたのであり、隅々まで知り尽くしていた土地である。しかも文字通り土足でずかずか入ってきたのだから、その渡来は侵略の名にこそふさわしい。例えば、1992年の「コロンブス500年祭」に合わせ、「アメリカインディアン運動(AIM)」のスポークスマンであるスー族のラッセル・ミーンズは激しい言葉でコロンブスをこう批判している。

「コロンブスは大西洋を横断した世界初の奴隷商人だ。コロンブスの前では、アドルフ・ヒトラーはまるでただの不良少年だ」

 一連の批判を耳にしてスペインは、「発見」をやめて「二つの世界の出会い」と呼ぶことにする。しかしこれにも異論がある。コロンブスは連れてこなかったかもしれないが、間もなくたくさんのアフリカ人が奴隷としてカリブ海の世界に住まわされることになったではないか。したがって「出会い」は「二つの世界」ではなく、「アフリカを含めた三つの世界」というべきである。もっともな意見だ。憂鬱な歴史がコロンブスとともに始まったことも確かである。

 いずれにせよ、コロンブスの航海が世界史を大転換させたことは間違いない。では、コロンブスの歴史的航海とはどのようなものだったか?その概略はこうだ。

 1492年8月3日スペイン・アンダルシアの港町パロスを出航したコロンブス一行(サンタ・マリア号、ピンタ号、ニーニャ号)はカナリア諸島に寄港したのち、9月6日ゴメラ島から一路西へと未知の大海原に船を進めた。そして37日目の10月12日、最初の島グアナハニー島(「サン・サルバドール島」と命名)に到着した。このあと、グラン・カンの治めるカタイの国や黄金の島ジパングを探してカリブの島々を巡るさなか、クリスマスの夜、サンタ・マリア号はエスパニョーラ島で座礁。そのためコロンブスはやむなく同船を放棄し、島に乗組員39名を残留させ、翌1493年1月4日、ニーニャ号を率いて同島から帰途についた。途中、二度にわたり大しけに遭い、アゾレス諸島のサンタ・マリア島およびリスボン港に緊急避難したのち、3月15日、パロスに無事帰着した。

 間違えてはいけないのは、この航海はコロンブスの個人的な冒険航海でなかったのはもちろん、カトリック両王(イサベル女王、フェルディナンド王)の援助を受けて行われた航海でもなかった、ということ。これはコロンブスが売り込んだ計画を買い取ったカトリック両王が王室の事業として仕立てた航海であり、コロンブスはカスティーリャ王室に仕官した人間として船に乗り込んだのである。

コロンブス第1回航路図

ギルランダイオ「コロンブス」ペーリ海事博物館(ジェノヴァ)

「コロンブス」マドリード海洋博物館  息子フェルディナンドの描写に最も近いとされる

プエブラ「コロンブスのサン・サルバドール島上陸」プラド美術館

フランシスコ・ロペス・デ・ゴマラ

ラッセル・ミーンズ

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