「大航海時代の日本」20 オランダ(4)平戸商館
1609年7月1日、オランダ人使節の乗った2隻のオランダ船が平戸に入港。その経緯はこうだ。平戸松浦家では1599年、英雄的な貿易家だった隆信(道可)がなくなり、その子の鎮信(法印)の代になっていたが、気質も才略も似ていて、松浦家の貿易主義をよく踏襲した。1605年、江戸幕府より南洋渡航の朱印状を得た鎮信は、朱印船をマレー半島のパタニに派遣。パタニにはオランダ商館があり、朱印船にはリーフデ号の船長と一部の船員たち生存者を乗せた。また、同時に家康からオランダに対して通称を求める朱印状が託された。これはオランダへ送付され、1606年2月、オランダ東インド会社は日本との通商を決定。こうして、オランダ人使節の乗ったオランダ船が平戸に入港することになったのだ。
オランダ人使節は、駿府の徳川家康に謁見し、通商許可の朱印状を受け取る。平戸に戻った使節は、平戸にオランダ商館を開設することにし、初代商館長としてジャックス・スペックスを任命(この時24歳。初代長官:1609年~13年、3代長官:1614年~21年)。この時から長崎出島に移転させられる1641年まで、オランダ商館は平戸で活動する。すでに幕臣であり、家康の外交顧問であったウィリアム・アダムスは、オランダ商館が活躍しやすいように尽力したようだ。
当初、日本向け商品が十分に調達できないこともあって、平戸商館の役割は、日本との取引よりもむしろ戦略拠点としての性格が重視されていた。すなわち、東南アジアでのポルトガル・スペイン勢力と対決するための拠点としての役割を期待されていた。当時オランダ船は、海上で発見したポルトガル船や中国戦を襲撃し、その物資を掠奪していた。そして略奪した物資はいったん平戸商館に陸揚げし、仕分けされたバタビア(現ジャカルタ)へと送られていた。だが、こうした行為はやがて幕府の介入を招く。1624年、オランダは台湾に拠点(要塞ゼーランディア城)を確保し、対日貿易の拡大を計り出すが、そのことが逆に別の事件を引き起こす。
1628年、台湾のタイオワン(ゼーランディア城)で起こった日本の末次平蔵所有の朱印船とオランダ商館の衝突事件「タイオワン事件」である。その頃、長崎を拠点にした日本の朱印船貿易もタイオワンにも入港し、中国商人から生糸を得ていたので、その地がオランダに占拠されたことで新たな紛争が起こったのだ。有力な朱印船貿易家で長崎代官【1619年―30年】であった末次平蔵は、配下の浜田弥兵衛に指揮させた持ち船2隻をタイオワンに入港させたところ、オランダの長官ノイツは日本船に課税した上、武器を携行しているとして乗組員を捕らえた。交渉のために長官の屋敷に赴いた浜田はいきなりオランダ人2人を殺し、ノイツに飛びかかって縛りあげて日本船に連れ帰った。オランダ側と浜田弥兵衛が交渉し、長官ノイツを釈放する代わりに互いに人質を出し合い、幕府の裁定を仰ぐことになった。ところが幕府では折りから将軍秀忠が亡くなったこともあって、裁定が遅れ、その後5年にわたって幕府とオランダは絶交状態が続いた。ようやく強硬派であった末次平蔵が死去し、オランダ側もバタビアのオランダ領東インド総督スペックス(かつて平戸商館長)がノイツの責任を認めて損害を賠償する措置をとったので1632年に事件は解決し、貿易が再開された。
この時のスペックスの対応は、オランダが東南アジアで見せた高圧的で不遜な態度とはまるで異なり驚かされる。それだけ日本との交易は利益が大きかったのだ。1637年におけるオランダ東インド会社全体の利益総額のうち、平戸商館での貿易による利益はなんと70%以上に達していた。これだけの利益があがっている以上、日本での貿易を有利に運ぶために、オランダ人が徳川政権の命令や要求を受け入れたのも当然だろう。武器や日本人傭兵の輸出を禁じられるとそれを遵守した。1633年以後は、平戸の商館長が江戸の将軍のもとへ、日本との取引を認められているお礼を申し述べるために参上するようにさえなった。さらに、島原の乱の際には、徳川政権からの依頼を受けて、船を原城沖に回し、城に向けて大砲を何発も放っている。キリスト教宣教師と表裏一体の関係を持っていないオランダ人との貿易は徳川政権にとってメリットが大きかったが、それはオランダ側にとっても同じだった。
台南のオランダ東インド会社の要塞ゼーランディア城 中国、日本との貿易の拠点だった
「タイオワン事件」 浜田弥兵衛らに捕らえられるピーテル・ノイツ、1628年
「ジャック・スペックス」アムステルダム国立美術館
「ジャック・スペックス像」歴史の道 平戸
1621年平戸港
平戸のオランダ商館(1669年の版画)
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2021.06.21 12:19
2021.06.14 00:46
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