「大航海時代の日本」18  オランダ(2)オランダ東インド会社(VOC)①

 16世紀に北西ヨーロッパの経済的中心だったのはベルギーのアントウェルペン(アントワープ)。ここの商人にも新教徒は多かった。スペイン王からカトリックに改宗するように迫られた彼らの多くは、王に反抗するオランダ、とりわけアムステルダムに居を移す。そのため、この町は1585年から30年余りの間に7万5000人も人口を増やし、1622年には10万5000人が居住する都市に成長していた。増えた人口の多くは、アントウェルペンからの裕福な商人、金融業者、手工業者だったから、アムステルダムは急速にその経済力を増していった。

 オランダは高度な航海技術も持っていた。農業に適さない低湿地(現在も国土の半分が海抜1メートル未満)が多かったため、多くのオランダ人が早くから漁業や海運業などを営んで海に進出していた。これら海運業者の中には、ポルトガルのリスボンに赴いてコショウや香辛料など東インドの品物を仕入れ、それをバルト海沿岸の諸地方まで輸送する者もいた。しかし、オランダとハプスブルク家が戦争状態に入ると、彼らはイベリア半島の港町への寄港を差し止められてしまう。彼らはどうしたか?自分たちで東インドへ赴くことを考え始めた。

 1595年、喜望峰を越えて東インドへ向かうための4隻の船隊がアムステルダムを出発。15カ月かかってジャワ島西部の港町バンテンに到着した。そして1597年8月にオランダに戻る。乗組員の数は、当初の240人から87人に減っていたが、3隻が戻った。これによってポルトガル人の手を経なくても東方との直接貿易が可能だということが証明された。人びとは沸き立ち、アムステルダムをはじめ北海沿いの多くのオランダの町で商人や金融業者が資本を出し合って船が艤装され、争って東方へと送り出された。利益率は高かった。1599年7月にアムステルダムに帰還したヤコブ・ファン・ネックの指揮する4隻の船隊は、目も眩まんばかりに豊かな東方の品々を山積みにして持ち帰り、利益率は399%だったという。東インド貿易は一挙にブームとなった。

 オランダの一連の動きは、当然すぐに他国の人々にも伝わったが、東インドとの貿易は誰でもが簡単に参加できるようなものではなかった。ポルトガル王室の財力をもってしても、東インド貿易を単独で続けるのは困難だったほどなのだ。16世紀末の段階で、東方との貿易に意欲を持ち、それを実行できるだけの財力を有していたのは、結局、オランダのいくつかの都市とイギリスのロンドンの人々だけだった。

 資本を提供する商人や金融業者がロンドンにしかいなかったイギリスと異なり、オランダは北海沿岸各地の都市に拠点を置く東方との貿易会社がすでに複数存在し、たがいにしのぎを削っていた。季節風という制約があるためにほぼ同じ時期に到着する複数の船隊が、競争して同じ品物を入手しようとするのだから、現地での仕入れ価格が上昇する。これらの船隊が商品を同じ頃大量に持ち帰るので、ヨーロッパでの販売価格が下がる。悪循環である。会社に出資していた各都市の有力者たちが、何とかこの競争をやめさせ、安定した利益を得たいと望んだのは当然だろう。

 各地の会社を合同して一つの貿易会社とするように難しく厳しい交渉が続けられ、ついに妥協が成立し、1602年3月に新しい組織が生まれた。それが「連合東インド会社 Verenigde Oost-Indische Compagnie」(略称VOC)通称「オランダ東インド会社」である。それまで、アムステルダム、デルフト、ホールン、ロッテルダム、エンクホイゼンの5つの都市とセーラント州ミッデルブルクに個別に拠点を置いていた6つの会社が合併し、さらに多くの資本が集められて一つの巨大な会社が誕生したのだ。この会社は、オランダ共和国政府から特許状を与えられたが、あくまでも民間の会社。しかしこの会社には、オランダ国会の名において、東インドで要塞を建設する権利、総督を任命する権利、兵士を雇用する権利、それに現地の支配者と条約を結ぶ権利を与えられた。準国家といってもよいような存在である。

ヘンドリック・コルネリスゾーン・フローム「オランダ絵画の黄金時代」1599年 オランダ船隊(ヤコブ・ファン・ネック指揮)のアムステルダム帰還

コルネリス・ケテル「ヤコブ・ファン・ネック」アムステルダム国立美術館

コルネリス・デ・ハウトマン 

  チーフ商人として東インド諸島に初めて航海したオランダの商人、探検家

コルネリス・デ・ハウトマンの船隊

バンタムに到着したコルネリス・デ・ハウトマン

バンテン(ジャワ島西部) オランダ人が最初の東インドへの航海で到着した港町

オランダ東インド会社の旗

VOCのモノグラムロゴを持つ有田焼皿

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