「大航海時代の日本」15  秀吉VSスペイン①

 教科書的理解では「1580年,スペイン王フェリペ2世はポルトガルを併合。それによってポルトガルが持っていた海外領土もすべてスペインのものになり『太陽の沈まぬ国』を築き上げた」となる。これは、注意してとらえないと、日本の鎖国に至る経緯を読み間違えてしまう。ポルトガル併合によってスペインの一元的支配が海外領土でも貫徹した、などと考えてはいけない。日本におけるポルトガルとスペインの対立、ポルトガル系イエズス会とスペイン系フランシスコ会の対立は、1580年のポルトガル併合でむしろ深まった。そして「サン・フェリペ号事件」(1596年)および「日本二十六聖人殉教事件」(1597年)後さらに先鋭化していったのだ。

 16世紀後半以降の日本とヨーロッパの関わりを大まかに見るとこうなる。当初は、イエズス会のキリスト教伝道とポルトガル人による長崎貿易という比較的単純な構図だったが、秀吉から家康へ天下人が交代するにつれて、17世紀に入ると複雑で錯綜したものに変わる。まず第1に、フィリピンに拠点を置くスペインとの交渉が始まり、それにつれて、フランシスコ会、ドミニコ会など、スペイン系修道会が日本という宣教のマーケットに参入して、イエズス会の独占を打ち破る。これは秀吉の晩年からすでに生じていた事態であるが、家康のスペインとの交易の意欲もあって、いくつかのドラマを生み出す。さらに重要なのは、オランダ・イギリスの登場である。彼らはキリスト教伝道に関心はなく、もっぱら純粋な交易者として舞台に現れたが、ポルトガルの日本貿易独占を打破するばかりでなく、ヨーロッパにおけるスペイン・ポルトガルとの対立を日本に持ち込み、鎖国に至る伏線を形づくることになる。

 まずスペイン参入について見る。スペインはアジアでの拠点フィリピンをどのように獲得したか?1521年、スペインの派遣したマゼラン船団が到達して以来、スペインはこの地の征服を目指して艦隊を何度か派遣した。その中で1542年の遠征隊が、この地を時の皇太子(後のフェリペ2世)の名にちなみ、フィリピンと名付けた。ただし、この段階でスペイン領となったわけではなく、スペインがフィリピン領有を確実にするのはレガスピ艦隊の派遣によってである。レガスピは1565年にセブ島、70年にルソン島のそれぞれ要地を征服し、71年にはマニラを首都と定めて、フィリピン植民地の成立を内外に告知した。従来、ヌエバ・エスパニア(メキシコ)からフィリピンへの航路は往路のみで、帰路は西廻りに世界一周するしかなかった。フィリピンから直接東航してメキシコへ帰ろうとしても、風向きが許さなかったのである。この難問を解決したのがウルダネータ。彼は1565年、北緯42度まで北上し、太平洋を横断してメキシコへ帰還する航路を発見した。この「ウルダネータの航路」によって、アカプルコ・マニラ間のガレオン航路が確立され、フィリピン植民地の存続は保証されたのである。

 1584年、マカオ商人の船が平戸に入港したが、この船にフィリピンの托鉢修道会員が4人乗っていた。フランシスコ会、アウグスティノ会各2名で、これがスペイン系修道会士の初日本渡来だった。この船はマニラからマカオへ行く途中、逆風に遭ったとも、故意に進路を平戸へ向けたとも言われる。平戸国主松浦鎮信(まつらしげのぶ)はマカオ貿易の利を大村氏に奪われて、憤懣やるかたないところだったから、マニラから来た4人の修道士を大歓迎し、翌年彼らが帰国する際には、フィリピン総督宛に書状、ならびに鎧などの進物を託した。その後、松浦鎮信はマニラとの交易を拡大させる(フィリピン制服の野望を抱いていたとする説もある)が、1587年の秀吉の九州平定によって、鎮信がフィリピンに手を伸ばす余地はなくなる。

 秀吉は朝鮮出兵の前年である1591年、ゴアのインド副王(ポルトガル)とともに、マニラのフィリピン総督(スペイン)に降伏勧告場を突きつけて恫喝している。特にフィリピンに関しては、その後も二度(1593年、1594年)降伏勧告状を出している。フィリピンのスペイン人が日本征服の野望を懐いているとの疑念を持っていたからだ。

ウルダネータの航路 

 この航路の発見により、アジアからアメリカに東航することが可能になり、やがてはアカプルコ=マニラ間のガレオン船による貿易が始まった

アントニス・モル「フェリペ2世」エル・エスコリアル修道院

初代フィリピン総督レガスピ

「ウルダネータ像」オルディシア スペイン

マニラ 1684年

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