「江戸の寺子屋と教育」9 年中行事(1)
寺子屋には1年を通じて様々な行事があった。年頭には「書き初め」を行った。書き上げた書は、皆に見えるように壁や柱などに貼り出し、優秀な子供には景品として菓子などの褒美が与えられた。書初めの後は余興として福引などが行われ、子どもたちの楽しみの一つとなっていた。
「手習の師、年々吉書(かきぞめ)の筆を門人に試(こころ)ましめ、あべ川餅の振舞あり。余興に福引の催ありしを、門人のこどもは正月の楽しみに待兼る所なり」(『江戸府内絵本風俗往来』)
毎月25日は、天満宮参詣の日である。この日は寺子屋は月に一度の休業日。菅原道真を祀った天神様は、学問の神として信仰を集め、学業の上達を期して、手習子たちはお参りをする。梅の花が咲き始める正月の天神祭は、特に賑わった。
「黒い指折って楽しむ御縁日」(25日が早く来ないかと墨で汚れた指で数える寺子)
「足音も二十五日は細かなり」(子どもの歩幅の狭い草履の足音)
使い古した筆などを持って、境内の筆供養に供える。江戸では亀戸天神が有名であるが、ここには今でも古い筆を備える筆塚が建っている。
「古筆を持って素顔で通るなり」(この日は寺子屋が休みなので、墨で汚れていない素顔)
生活をする上での数々の願望を持っている大人とは違って、子どもは無邪気で純真にお祈りをする。
「欲の無い顔で額ずく御縁日」
「五五(ごご)の日は欲心の無い手を合わせ」(「五五」=「二十五」=天神祭)
しかし、神妙に手を合わせているだけではない。
「あま犬も二十五日は馬にされ」
「天犬(あまいぬ)」(狛犬の異称)にまたがっているのを師匠に見つかったら大変。叱られるので、慌てて降りる。
「そりゃ師匠様とあま犬降りるなり。
正月25日は寺子屋で天神講が行われた。子どもたちが餅や菓子の供え物を菅原道真公、すなわち天神様の画像の前に捧げて、手習いの上達を祈る。会食をしたり、道真公の経歴や功績などを讃えた講話を師匠から聞き、行事が終了した後には遠足へ行く場合もあった。これは、子どもたちの物見遊山と考えることができるが、子どもたちが連れ立って行くことは、衆人の除目を集め、師匠が宣伝効果をねらったものとみなすこともできる。
宣伝効果をねらったものと言えば「師匠の花見」。江戸時代中期以降、手習塾(寺子屋)の師匠が弟子たちを引き連れ、花見に出る姿が見られるようになる。この一行は、揃いの日傘、手拭で着飾り、人数は百人以上となることもあった。
「花軍(はないくさ)でもさせそうに師匠連れ」
「師匠の花見やれ散るなそれ散るな」
当時、江戸の就学率は高く、寺子屋間の競争も激しくなっていたため、師匠の花見は、塾の宣伝を兼ねた示威行動であったと考えられる。後には、歌や踊りの師匠、俳諧の宗匠、吉原の新造や禿も徒党を組んで花見に出かけたようだ。
このように,群集で雑踏する花見の場を,そろいの衣裳で練り歩く寺子の行列の背景には町人層全般におよぶ,当時の寺子屋の広範な普及があった。特に,日本橋・京橋・芝・下谷・浅草・深川といった下町における、女子の就学率の高さと多くの女師匠の存在は、師匠の花見の盛況の一因であったと考えられる。揃いの晴れ着の行列は、集団への帰属意識をもたらしたと思われるが、一方で親たちの費用負担は重く、不満もあったようだ。
豊国「風流てらこ吉書 はじめけいこの図」文化2年(1805)頃
奥村政信「浮絵天神講」
『江戸名所図会』墨田川堤春景 「師匠の花見」
広重「江戸名所 飛鳥山花見乃図」 「師匠の花見」
広重「飛鳥山花見の図」 「師匠の花見」
広重「名所江戸百景 下谷広小路」 「師匠の花見」
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