「ヒトラーとは何者か?」8 ミュンヘン移住
18歳から24歳までの多感な時期をアドルフはウィーンで過ごした。しかし、彼自身が後に回想しているように、それは「生涯でいちばんあわれな時代」であり、「悲しい思いを起こさせるだけ」の時期だった。早くからの夢だった美術家、建築家への道は開かれなかった。結局、アドルフは職業を身につけることもなく、将来への道も定まらないまま、ミュンヘンへと移ってゆくことになる。アドルフは、ウィーンを離れた理由をいくつか挙げている。親スラブ政策によってドイツ人に不利益を強いるハプスブルク帝国への激しい反発、ウィーンのドイツ文化を「蝕む」「外国人との混住」に対する嫌悪感の増大、オーストリア=ハンガリー帝国はもはや終わりだとの確信、「幼い頃から密かに夢と愛着を抱いてきた」ドイツに行きたいという思いの強まりなどである。しかし、アドルフが国境を越えてドイツに入った直接の差し迫った理由は別にあった。リンツ市当局がアドルフの徴兵逃れを追跡したためである。1913年5月16日付で国の孤児金庫から両親や叔母の残した遺産800クローネ以上の大金を受け取ることになったこともきっかけにはなったようだが。
「ミュンヘンを知らざればドイツを見ないばかりか、いやミュンヘンを見ない者は、第一にドイツ芸術を知ることはできないのだ。いずれにしても(第一次)大戦前のこの時代は、わたしの生涯のいちばん幸福な、この上なく満足な時代であった。・・・私の知っている他の土地よりもずっとわたしをこの都市にひきつけた内心の愛着があった。ドイツの都市だからだ!ウィーンに比べて何と違いだろう。この多種族のバビロンの都市を思い出すだけでも、胸が悪くなった」(ヒトラー『我が闘争』)
ドイツとの国境バイエルンに接したイン川沿いの町ブラウナウで生まれたアドルフにとってミュンヘンは、距離的にも、民族的にも、方言的にも、ウィーンよりはるかに身近で好感の持てるドイツの都市だった。街で耳にするバイエルン方言のドイツ語は、ほとんど彼の話すドイツ語に近く、それだけでもミュンヘンは、彼に親近感と安心感を与えてくれるところだった。
すでにウィーンで絵を描いて売り、生計を立てていた24歳のアドルフは、ミュンヘンにやってくると、すぐに絵描きの仕事を始める。彼が売り歩いた絵はほとんどが水彩画で、みなミュンヘンの記念建築物を描いたもの。旧市庁舎、宮廷劇場、宮殿、ホーフブロイハウス、アルターホーフなどの絵葉書を模写したもので、バー、カフェ、ビアホールなどに並べ、買い手を探した。二、三日で仕上げた1枚の水彩画の値段は5マルクから25マルク。1913年の納税証明書によると、アドルフの年収は1200マルク。余裕のある生活が送れるだけの年収である。それは彼が望んだような理想的な芸術家の道ではなかったが、アドルフは画家として自立し、十分生活できるまでになったのだ。
しかし、1914年1月18日、そんな生活が突然中断される。ミュンヘン刑事警察の警察官が、二日後にリンツで兵役登録せよとの出頭命令を携えて下宿先にやってきたのだ。即座に逮捕され、オーストリア領事館に連行されるが、アドルフは3枚半にわたる申し開きの書面をリンツの警察署にしたためる。1914年2月、アドルフはミュンヘンからザルツブルクに出頭し兵役検査を受けるが、身長175センチのアドルフは、やせ細っていたため、身体虚弱で不合格となり、兵役義務から解放された、自ら招いた窮地を脱したのだった。
こうしてアドルフは三流芸術家としての日常に戻る。しかし、それは長くは続かなかった。暗雲がヨーロッパを覆い始めていた。アドルフがミュンヘンでの生活を始めた20世紀初頭は、列強諸国の帝国主義的進出により世界の分割はほぼ完了していたが、それでもなおそれぞれの支配、占領地域をめぐって、列強諸国間の政治的、経済的、軍事的対立、競合が先鋭化していた。遅れて帝国主義的進出を図ったドイツ帝国は、アジア・アフリカへの進出を試みる一方、他方ではオーストリア=ハンガリー帝国を後押しして汎ゲルマン主義のもとに、東方への進出も企て、ロシア帝国を盟主とする汎スラブ主義と対立していた。
ホフブロイハウス 現在
ホフブロイハウス 1890年と1900年の間
ホフブロイハウスの中庭 絵葉書 1918年以前
フィリップ・ド・ラースロー「ホーフブロイハウス 1892年」ハンガリー国立美術館
ホフブロイハウス 現在
アルターホフ(旧王宮) ミュンヘン
かつてルートヴィヒ城と呼ばれ、ヴィッテルスバッハ家の最初の居城(1253年~1474年)となった建物
ヒトラー「ミュンヘンのアルターホフ(旧王宮)」アメリカ合衆国陸軍戦史センター
バイエルン国王ルートヴィッヒ3世 1912年
ノイシュヴァンシュタイン城やバイロイト祝祭劇場を残し、「狂王」と呼ばれたルートヴィッヒ2世の甥
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