「ヒトラーとは何者か?」5 ウィーン時代(1)「貧困と悲惨のとき」?
ヒトラーは『わが闘争』の中で、ウィーン時代の生活を振り返ってこう書いている。
「貧困と悲惨のときを過ごした・・・世界像と世界観が形成された・・・ウィーンは私にとって人生で最も厳しく、徹底的な学校だった」
この言葉は、そのままストレートに受け取るわけには行かない。ヒトラーの公の発言はすべてそうだが、彼は効果をねらって文章を書いている。したがって『わが闘争』も、どのような状況下で、どのような目的で書かれたかを知っておく必要がある。大失敗に終わった「ミュンヘン一揆」(1923年11月8~9日,政権奪取をめざしてヒトラーがミュンヘンで起こした一揆)と、プロパガンダとしては成功した裁判(1924年2~3月、ミュンヘンで裁判が開かれた。4月1日に判決が下され、ヒトラーは5年の禁固刑に処せられた)のおかげで、ヒトラーの名は1924年には極右ナショナリストのあいだに知れ渡った。しかしナチ党は禁止され、民族至上主義運動は先も見えないほど分裂してしまった。ヒトラーが『わが闘争』を書いたのは、そうした状況下で、万人が認める民族至上主義的右翼の唯一の指導者として自らの立場を確立することを目的としていた。そうした指導的立場を求める基盤としたのが、意志の力で逆境に打ち克ち、類い稀な人格と「世界観」を育んだ天才という英雄的なイメージだった。それは神話であり、ひとえに政治的目的で作り上げられている。
「もともと少ししかなかった父の財産は、母の重病のためほとんど使い果たしてしまったし、私のもらう孤児年金も生きるのがやっとという程度にすら足らなかった。そこで、どうにかして、自分の腕で生活費を稼がなければならなかったのである」(ヒトラー『わが闘争』)
ヒトラーのウィーンの部屋の下宿料は月額平均10クローネ。若い教師なら勤務開始後5年間は66クローネ、郵便局員の職員の月給が60クローネという時代である。ヒトラーは父方の遺産から毎月58クローネをもらい、そのほかに孤児年金(当時、満24歳まで、独立した収入で生活できない場合に国から支給)として25クローネを受け取った。さらに叔母(母クララの妹)ヨハンナ・ベルツルから母を経て自分のものになったワルブルガ・ヒトラーの遺産からの多額の取り分があった。アドルフが遺産相続の結果、一体いくら金を持っていたかを正確に裏付けることはできないが、おそらく普通に生活すれば、数年間は何もしなくても生きてゆくことができる遺産額を相続していたと推測できる。
しかも友人のクビツェク(1908年2月末から7月初めまで4カ月、アドルフと同居)が詳しく伝えているように、質素に徹していたアドルフは、パンとミルクとバターでほとんど一週間暮らすことができた。酒もタバコもやらず、ガールフレンドを持つこともなく、自分のしたいことに黙々と徹していた。しかし、一番安い立見席(それでも一人2クローネ)ではあったが、しばしば宮廷劇場(ウィーン国立歌劇場)でオペラを鑑賞した。クビツェクは、アドルフと下宿生活をともにした4か月間に、アドルフはワーグナーの『ローエングリン』を10回近くも観劇したと証言している。ワーグナーに耳を傾けるときのアドルフは、全く違った人間のようになり、彼のごつごつした面は消え去り、また彼の落ち着きのない不安定なそぶりは平静を取り戻し、柔らかい温かみのある姿に変容していったようだ。
当時のウィーン宮廷劇場で名声を博していたのはユダヤ人指揮者グスタフ・マーラー(「私は三重の意味で故郷がない人間だ。オーストリア人の間ではボヘミア人、ドイツ人の間ではオーストリア人、そして全世界の国民の間ではユダヤ人として」)。彼の振るワーグナーの作品は、アドルフに特別深い感動を与えていた。『ローエングリーン』や『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の作品の多くの部分を暗唱していて、時々衝動的に興奮して口ずさんでいた。アドルフはワーグナーに思いをはせながら、オペラ劇場の設計をどれほどしばしばしていたことか。当時ヨーロッパ最高を誇るといわれていたウィーンのオペラは、夢見る二人の若者をとりこにしていたのである。
ウィーン宮廷劇場(国立歌劇場) 1900年
ヨハン・ヴァローネ「ウィーン宮廷劇場」1890年
ロベルト・シフ「オペラ座を去る観客」1900年
グスタフ・マーラー 1907年
グスタフ・マーラー 1909年
フェルディナンド・フォン・ピロティ「ルートヴィヒ2世」
ワーグナー『ローエングリン』の主人公ローエングリンに憧れ、自らをローエングリンと空想し、逃亡中の作者ワーグナーをエルザとみなして保護した
リヒャルト・ワーグナー 1871年
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