「ヒトラーとは何者か?」3 父親(2)

 アドルフの妹パウラは、大戦後に両親とアドルフの関係についてこう語っている。

「(母親は)穏やかな優しい人で、厳しすぎる父親と、しつけようにも少々元気のよすぎる子どもたちを中和してくれる存在でした。両親が諍いをしたり、意見が食い違ったりするのは、決まって子どものことでした。兄アドルフは父に激しく反抗し、毎日のように打ち据えられていました。・・・逆に、兄を優しく抱きしめてやり、厳しいばかりの父にはできないことをしようとしたのが母でした」

 40年にわたってオーストリアの国家公務員として勤めあげたアロイスが1895年退職すると、家庭内での存在感が高まり、アドルフとの衝突は激しさを増す。ヒトラー家には、異母兄アロイス・ジュニアと異母姉アンゲラも同居していたが(二人は二人目の妻フランツィスカの子)、この長男アロイス・ジュニアは父に反抗して家を出た。また1900年、アドルフの弟エドムントが麻疹で死亡。アドルフは、わが子の栄達にかけるアロイスの期待を一身に背負うことになり、その後アロイスが亡くなるまで、父子関係は緊張したままだった。

 父は息子に自分と同じ官吏の道を進むよう望んだが、アドルフはこれを嫌った。父は大学進学を前提とするギムナジウムではなく、実科学校へ息子を進学させた。そこには実社会で役に立たない古典語学習に時間を割くよりも、職業に直結する生きた知識・技能を身につけさせたい父の思いがあった。しかし入学したリンツの実技学校は、アドルフには向いていなかったようで、成績は芳しくなかった。父親との関係が悪化し、進路をめぐって対立していたせいで、アドルフはますます落ちこぼれていった。

 父親が進める進路にアドルフが反発すればするほど、父親は権威を振りかざし、意固地になった。息子も負けず劣らず頑固で、本人の弁によれば、将来は何をするつもりかと聞かれて芸術家になりたいと答えたという。オーストリア帝国の気難しい官吏だったアロイスから見れば、そんな選択は問題外。「芸術家になど、私の目の黒いうちは絶対にさせん!」とアロイスは言ったようだ。アロイスは庶民の出でありながら努力に努力を重ね、上級税関職員にまで上り詰めた。それに対して、息子ははるかに恵まれた環境に生まれながら、絵画と空想にばかり時間を費やして学校に適応しようとせず、将来のことも考えようとせず、父親にとってすべてともいえるその職業を馬鹿にしきっていた。

 父子の衝突にはもう一つの側面があった。リンツに住む6万人ほどのドイツ人はかなり均質でドイツ・ナショナリストばかりだったが、そのナショナリスト感情は政治的には二分されたかたちで表れていた。ヒトラーの父親は、1890年代後半のこの時期、チェコ人への譲歩によってドイツ人の優位が脅かされることが危惧される中、オーストリア帝国内でドイツ人の利害が優先され続けなければならないと考えていた。しかし、70年代にゲオルク・リッター・シェーネラーが主唱したような、オーストリア帝国を否定して帝政ドイツを賛美する汎ドイツ的なナショナリズムには関心を示さなかった。これに対してアドルフは、ドイツ・ナショナリズムの温床であるリンツの学校に通う中で、シェーネラー流の汎ドイツ的ナショナリズムに感化されていた。頑固で反抗的な息子が汎ドイツ的な考えに染まり、父親が生涯かけて尽くしたオーストリア帝国を馬鹿にすることが父親をさらに怒らせたのは確かだろう。

 こんな父アロイスは、1903年1月3日、帰らぬ人となる。享年65歳。アドルフの進路をめぐる衝突はこれで終わりをつげ、親からの圧力は無いも同然となる。母親は息子を父親の遺志に沿わせようと手を尽くしたが衝突は避けたし、息子の将来を心配はしても息子の気まぐれに理解がありすぎた。いずれにせよ学校の成績は相変わらず悪く、現実問題として官吏の道に進める状態ではなかった。それは転校しても変わらず、結局1905年秋、はっきりした将来の見通しもないまま16歳で中途退学する。そして、母親が亡くなる1907年末までの2年間、リンツの実家で息子を溺愛する母親に甘やかされて怠惰なすねかじりの生活を送るのである。

父アロイスと息子アドルフ

ヒトラー(最後列の中央)が10歳から11歳まで通った小学校の集合写真 1899年

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アドルフ・ヒトラーの妹パウラ・ヒトラー

アドルフ・ヒトラーの妹パウラ・ヒトラー

 1960年6月1日に64歳で死去。ヒトラー家の直系、最後の生存者だった

ゲオルク・フォン・シェーネラー 1893年

1898年から1905年までヒトラーが家族と住んだリンツ郊外レオンディングの家

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