「ヒトラーとは何者か?」1 1889年 アドルフ誕生

 20世紀という時代に消えない痕跡を残した独裁者といえば、イタリアのムッソリーニ、ソ連のスターリン、中国の毛沢東。しかし、その支配が、独裁者を生んだ国を越えて世界中の人々の意識に強く焼き付けられ、深い爪痕を残した20世紀の独裁者といえばヒトラーだけだろう。彼はごく短期間のうちにイデオロギー戦争、想像を絶するほどの残虐で強欲な征服、未曽有のジェノサイドという野蛮の極みに向かった。ヒトラーの支配はわずかに12年間。しかし、その支配はドイツを、ヨーロッパを、世界を恒久的に変えた。その人物がいなければ歴史は違っていただろうと評せる人物は数えるほどいないが、ヒトラーはその一握りに入る。

 ヒトラー独裁は、文化的で進んだ近代国家ドイツ、しかも当時最も民主的と言われたワイマール憲法下のドイツ(ワイマール共和国)で合法的に生まれた。文化的で進んだ技術を持つ高度に官僚的な近代社会で生まれた。そして、ヒトラーの権力はヒトラー自身が作り出した部分もあるが、大部分は社会的な産物だった。すなわち、追従者がヒトラーに寄せた期待や意図から作り出されたものだった。その権力は、カリスマ的権力、すなわちほかの人びとがヒトラーを英雄視することによって生まれた。したがって、ヒトラーを知るには、ヒトラー個人の自己形成史とともに彼が生きた時代を知る必要がある。

 「いかにしてヒトラーは権力を手にしたか」、「その権力の特質は何だったか」、「ヒトラーはその権力をいかに行使したか」、「なぜヒトラーはあらゆる制度上の障壁を越えてその権力を拡大しえたか」、「ヒトラーの権力に対してなぜあれほど弱い抵抗しかみられなかったのか」。こうした問いを、ヒトラーの個人史とともにドイツ社会史から考えたいと思う。まずは、彼の誕生から見てみよう。

 ヒトラーは、いつ、どこで、どのような家庭でうまれたのだろう。生まれた年は1889年4月20日。普仏戦争の勝利を機に、1871年にドイツ帝国が誕生してから18年後のこと。ドイツ帝国を誕生させ、ヨーロッパ世界を安定に導いたビスマルクが失脚する1年前。敵国フランスは、すでに普仏戦争敗北の打撃から立ち直り、第4回パリ万博(5月6日~11月6日)を開催。その最大のモニュメント「エッフェル塔」はこの年に完成した。ヒトラーが生まれた場所は、オーストリアのイン川の畔の町ブラウナウ・アム・イン。イン川の対岸はドイツ。つまりヒトラーはドイツとオーストリアの国境の町で生まれたのだ。イン川で隔てられただけで、1871年のドイツ帝国誕生時には同じドイツ民族でありながら排除されたオーストリア国民としてヒトラーは生まれたのだ。

 では、ヒトラーはどのような家庭に生まれたか。幼少期のヒトラーの写真が残されている。そこには後のヒトラーにつながる影は皆無。温かな愛情に包まれ安心しきった幼子の姿だ。確かに母親クララの愛情はたっぷり受けた。溺愛されたと言っていい。それもそのはず。アドルフは四男だが、三男オットーは生後数日で死亡。長男グスタフと次男イーダも、オットーの死からほどなく、ジフテリアで相次いで死亡。初めて死なずに育ったのがアドルフ・ヒトラーだった。五男エドムントも6歳で亡くなる。クララが生き残ったアドルフと妹のパウラに息詰まるほど過保護で献身的な愛情を注いだのも当然だろう。

 アドルフも母クララが大好きだった。「アドルフのことでとくに印象に残ったのは母親への愛情だった。・・・いわゆる『お母さん子』というのでもないが、見たこともないほど密な愛情で結ばれた母子だった」と医師エドゥアルド・ブロッホ(オーストリアのユダヤ系医師。乳癌を患った母クララの治療に当たった)は後に書いている。ヒトラー自身も『わが闘争』の中で「父のことは尊敬し、母のことは愛していた」と書いており、ヒトラーの人間らしい愛情をうかがわせる数少ない箇所のひとつである。ヒトラーは死ぬ前に母クララの写真を地下壕に持ち込んだ。ミュンヘンでもベルリンでもオーバーザルツベルク(アルプスのベルヒテスガーデン近くの山荘)でも、ヒトラーの部屋には母親の肖像が飾られていた。生前にヒトラーが心から愛したのは母クララだけだったようだ。

幼少期のヒトラー 1歳になる前

1937年 ヒトラー

ブラウナウ・アム・インの位置

イン川

ブラウナウ・アム・インの中心地

ブラウナウ・アム・インに現存するヒトラーの生家

母クララ・ヒトラー

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